2013年6月28日金曜日

「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」

先日読んだ「村上ラヂオ」のつづき。
それにしても、こんだけ大量に本を読んでると、
「生きてるうちにあと何冊本が読めるんだろう」
と思わずにいられない。
人生は短い。
読みたい本を読み、
読みたい本を読む時間を大切にしよう。
などと、神妙な気持ちになってくる。

この本にあった、日本版「大きな蕪」の話がけっこう衝撃的だったので、今昔物語を読んでみたくなった。
いや、小学生のとき読んだはずだけど、忘れてしまった。
その流れで「宇治拾遺物語」とか「堤中納言物語」とか、読み直したくなるなぁ。
プーシキンの短編「その一発」も面白そうだし。
(なんせ短編に弱い。。)
ああ、また読みたい本が着々と増えてゆく。。


最後の「ベネチアの小泉今日子」もグッときた。
心が痛んでつらいとき、孤独なとき、人が本質的に必要としているのは、やっぱり物語なんだと思う。
「小説も音楽も、自分の辛さを付着させ、昇華させる実用的な機能がある。深いところで人と人とがその孤独を担い合うことができる。」と村上さん。
人の根元的、普遍的な感情を表現し、昇華させるという点では、能楽と映画にも一票を投じたい。

「句読点、記号・符号活用辞典。」



なんでこれを借りたのか忘れてしまったけど、面白かったです。

メールなどでの絵文字、顔文字など、
記号をつかって感情を表したりする活用の仕方も多くなってる今、
もともとの意味や用法が知りたいという人のための解説本として、とても有用。


「ああ、あのこういう形の記号」というときに名前がわかったりする。
原語(?)と日本語が載っています。

たとえば、これ
 →「( )」
  日本語では、括弧または丸括弧
  英語だと、paren(パーレン)
それで、これ
 →「〔 〕」は、亀甲パーレン

ま、どうでもいいんですが。。
私みたいに出版にあんまり関わっていない人には、
雑学みたいにしかならないですけど。それはそれで知っていると楽しい。


1ページ1ページ真剣に読む、というよりは、
ふと思いついた時にパラパラめくる。
例文の出典元も載っていて、ちょっと読んでみたくなる本もあったりして。
それぞれの楽しみ方や活用の仕方が見つかりそうな辞典です。

「記号類は《漢字/平仮名/カタカナ/アルファベット》に続く“5番目の文字”として市民権を獲得しつつある。」
とまで言い切ってますが、いや、でも確かにそうかもなぁ。

小学館辞典編集部、、、熱いな!!

表札に見る昭和の家族

今朝、保育園の送りで自転車に乗っていて、
一戸建てのおうちの表札などを見ていてふと、
昭和時代の表札って、よく考えたらすごいなぁと。

・世帯主のフルネームのみ
 (ご家族でお住まいのおうち。我が家もそうだった)
・世帯主の下に1ポイントか2ポイント小さめ、ボールドなしで妻(恐らく)の名前

いやはや。
昭和の家族や夫婦の関係性がよくわかりますね。
それに対して家族が承服しているかは、不明ですが,
「なんかねぇ...」と思ってても、いちいち表札なんか変えないか。。
面倒だもんね。(私なら変えるけどね)

それが「よい家族」「よい夫婦」だった時代は、
今や終わってんだなぁと、しみじみ思う朝でした。


「悪い本」



岩崎書店の怪談えほんシリーズの一冊。
こちらは宮部みゆき作。

怖かった〜
夢に出そうだった。
そうね、悪い本。
読みたくない、でも読みたいなぁ。

自分の中の「悪」と、人はどう付き合っていってるんだろう。

そういえば、ピュアに悪い人なんていない、と思ってたけど、
自分が唯一知ってる「100%完全に悪でできてる人」
のことをちょっと思い出したりしました。ぞわ。。

この怪談えほん、とにかく作家が豪華!(京極夏彦とか)
最初の数ページだけ立ち読みもできます。

2013年6月27日木曜日

小説

きのう、「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」
について書いたら、またいろいろ考えた。

「事実は小説より奇なり」という言葉もあるように、
この1年半、現実の方が小説、フィクションよりすごいと思っていて、
その刺激にワクワクしていたけど、そうじゃない。
勘違いしていた。

物語られることによって初めて理解できること、昇華されることがある。
書き手という生の人間の身体、
時代と文化の病みを引き受け、
表現の力をもち、
それでいて健常である人が、創り出す物語。

読み手は、それぞれの人生の生い立ちと経験と
最大限の智恵をもって、
その中に普遍性や意味を読みとる。

現実がすごければすごいほど、
人には物語が必要なのかもしれない。

現実と小説のどっちが「奇」か、という問題でもない。

2013年6月26日水曜日

「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」


1996年の初版で読んでから、久しぶりに今年に入って再読。
ちょっとひっかかったところがあって、また借りて再読。


◎コミットメントということ
「個人として在る」ということについて考えたくて、
今は、たくさん本を読んだり、人と話したり、
ちょいちょい出かけたりしているわけですが、
できるだけ意識的に「個人」になってみて、孤独も含めて味わってみて、
そのうちに、何に本当にコミットするのか、
を考えていっているところなんだろうなと思います。
10数年前にドイツに数ヶ月滞在したことがありますが、
その時にはじめて、個人である自分に気づいたことがあります。
それまでは、何かのファミリーや組織の一部としての自分としてしか、
自分をとらえていなかったのだけど、
そうじゃない個としての自分が、ちゃんとあったことを思い出した感じがありました。
小学校に入る前にそうだったように、
「自分が自分として在る」というのか。



◎結婚と「井戸掘り」
心理療法をしていて、治療する側への影響はどのようなものか、
という話から、村上さんの
「夫婦というのは一種の相互治療的な意味はあるのですか」という問いかけがある。

それに対して、河合さんは、
「ものすごくあると思う。だから、苦しみも大変深いのではないか。
 夫婦が相手を理解しようと思ったら、
 理性だけで話し合うのではなくて
 『井戸』を掘らないとだめです。」
と答えています。

この「井戸」というのは、ねじまき鳥クロニクルに出て来る
エピソードから取られているのだけど、
「『井戸掘り』をするために結婚して夫婦になる」
という表現は、とてもしっくりときます。
自分の言葉で説明し直すのはとても難しいのだけど。

また、
「結婚の持つ、ある面であり、大変なことだから、
べつにしなくてもいいのじゃないかと思ったりする」し、
「ほんとうに『おもろい』ことで苦しみを伴わないものはないと思う」
にも同感。

独身でも、
「結婚しかけたけど、何かでダメになった」とか、
「親や友人夫婦を見ていてなんとなくわかる」
という方はいるんじゃないかと思う。

村上さんの脚注もまた近頃考えていたことに近く、ドキリとさせられました。
「夫婦は結婚生活はお互いの欠落を埋め合うためのものじゃないかと考えていたけど、最近になって、それはむしろお互いの欠落を暴き立てる過程の連続に過ぎなかったのではないか。結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかない。そして欠落を埋めるには、その欠落の場所と大きさを自分できっちりと認識するしかない。結婚生活というのは煎じ詰めていけば、そのような冷厳な相互マッピングの作業に過ぎなかったのではあるまいか」

そういう相互マッピングの作業は、
やはり夫婦という形だからできるのであって、
また夫婦であっても、「コミットメント」の姿勢と態度がなくてはできない。

それに続く項もまた興味深い議論です。



◎夫婦と他人
「相手を「理解しよう」とし始めたら途端にわからなくなり、たいていは相手を非難してしまう(「わからんやつだ」「男/女なんて」)。
「若いうちは性的な関係は大事だし、治癒作用をもっているが、
 どこかで「井戸掘り」に移行できないと、夫婦の関係を続けていくことはできない。」
「異性を通じて自分の世界を広めることをすっかりやめてしまう人も多い。つまりエロスを別の方(例えば「古文書の解読」)に向けることに情熱を燃やすとか」

この単行本でいうところのp78〜p94のパートは、迫力があり、
思わず何度も読み返してしまいました。

夫婦の関係性、、井戸掘り、、
なんとも恐ろしいテーマですが、、
日常の延長にあるのだよなぁ。

夫婦のことについては、河合さんのあとがきにも書かれています。
「日本文化が、根っこからの改革を強いられている中で、困難な状況のひとつとして生じているのが、人間関係。それが典型的にあらわれているのが夫婦関係」

摩擦が生じたときに、どちらかが「悪い」と非難するのでもなく、
さっぱりと離婚するのでもなく、例えるなら「井戸掘り」という道をとる。
でも結局は、「個人として、どう生きたいのか」であるし、
これからの時代、河合さんが書かれるように、
「各人はそれぞれの責任において、自分の物語を創り出していかなねばならない。」
と思う。答えは自分でつくるしかない。



◎物語と身体
常々、芸術家を呼ばれる人たちは、ある種の病みをもっているからこそ、
クリエイティブなのだろうと思っていたけれど、
この対話の一連の流れから、病みだけではなく
「健常さ」と「表現(形にする力)」と
「時代の病とか文化の病を引き受ける力を持っている」
ことも必要だ、と書かれている。
病んでいるからといって、クリエイティブなものが生み出せるとは限らない。
なるほど。



◎結びつけるものとしての物語
紫式部が「源氏物語」を書くことができた要素や背景が、
現代にも通じていて、興味深かった。
村上さんの脚注にあるように、
「個人としての女性:
日本的体制に組み込まれていない。そして、時間も金もある程度ある。いわゆる出世や蓄財にあまり関心がない。このような条件を並べてみると、現在日本で創造的な仕事をしている女性に、そのまま当てはまると思われます」
私もパッと思い浮かぶ人たちは、こういう人が多い。
でも、女性でも日本的体制に組み込まれて「オジさん化」している人も多い。
私自身、思いっきりオジさん化していたけれど、
出産を機にそこから外れることができたように思う。




◎フィクションは決して力を失っていない
きのう友人と2人で読書会をして、
「もし自分がこれからも読書会をするなら、フィクションがいい」
という話になった。
もちろん、ビジネス書や自己啓発書についての読書会があってもいいと思うのだけど、
その話は今したくないという感じがあった。
その感じを上手く説明できなかったのだけど、
村上さんの
「小説の本当の意味とメリットは、むしろその対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさ(あるいはつたない個人的営為)にあると思うのです。大量の直接的な情報が潮を引いて消えていったとき、あとに何が残っているかが初めてわかるのだと思います。」という一文(二文か)が完璧に説明してくれていた。



◎どう表現し、生きるか
「その人にとってものすごく大事なことを、生きねばならない。しかし、それをどういうかたちで表現するか、どういうかたちで生きるかということは、人によって違う。生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくる。」と河合さん。
よく作家が、「小説を書かなければ生きていかなかった」と言ったり、
映画作家が、「映画しかなかった」と言っているのは、こういうことなのかと思う。
でもクリエイティブな職業(ってなんでしょうね。。?)でなくても、
誰もがこういう「業(ごう)」みたいなものをもっているのではないかと、最近思ったりします。
それが強かったり、弱かったりは、人それぞれで。

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ひっかかったところについて、いちいち書き出していたら、ものすごく長い投稿になってしまった。

多肉のちから

きょうも雨。
こんな日は、Gonzalesの"Solo Piano"がよく似合う。

多肉植物には、花の咲く時期がある。
それぞれ春だったり、初夏だったり、冬だったり。
気づくといつの間にか花咲く準備をしていたりして、
ちょっと嬉しくなる。


▲もうすぐ咲こうとしている
エケベリア系(名前知らズ。。)多肉の花。



最近、多肉にかまいだしてから、あらためて心動かされるのは、
その生命力。

▲ちょっとわかりにくいのですが、手前の棒切れのような多肉。
 幹の途中から小さな葉が出ています。
 よく見ると、下の方にもこれから大きくなりそうな葉が。
 上の葉が傷んでいたので、思いきってちょん切って植え替えもしたら、
 「まだ死なぬ〜」とばかりに生えてきました。



▲こちらも元の葉がダメになって、切ったもの。
 分かりにくいのですが、幹の途中から赤い根が次々と出ています。
 上の方がぼこっとしているので、もしかしたらここから葉が出て来るのかも。
 両側に置いてあるのは、他の多肉の葉。
 うっかり葉を落としてしまったのですが、
 こうやって放っておくと、勝手に葉から根が出て来るのです。


とにかく生命力が強い多肉。
原産は、アフリカ、南アメリカなど、暑くて乾燥した土地ですが、
日本の気候に合わせて改良されているのか、
陽当りが良ければ、たいていの場所で育ちます。

最近調子にのって、普通の(?)植物として、
ベランダでは、
朝顔、ゴーヤー、ゼラニウム、レモンマートル、セローム、ペペロミアを、
室内では、パキラ、コーヒーの木、ウンベラータ
を育て中です。楽しい。

うちは陽当たりが良すぎるので、
この夏を無事に越せるかが、少し心配。

昨年は、全然「かまって」なかったので、
夏どうだったのか不明ww
何鉢かはダメになったと思いますが、それも記憶になし。
かわいがっているような、いないような、
自分でもよくわかりません。。


「フロム・リトルプレス」



ちょっと素敵なカフェやレストランのレジ周りに置いてある、
チラシやショップカードや、小さな本のような読み物が好きで、
よくもらってきます。
(そういうものが貯まって山になってしまうので、定期的に選別するわけですが)

情報を得るため、とか
新しい世界を知りたい、というのもありますが、
やっぱり素敵なデザインや、フォントや、手触りや目に嬉しいものは、
ついつい持ち帰ってしまいます。
そこからインスピレーションを得たい、とかもあります。
コラージュに使ったりもします。

特にその中でも、自費出版として配布(無料、有料にかかわらず)
リトルプレスやジン(ZINE)というのだと、この本を読んで知りました。
フリーペーパーや同人誌なども含まれるのかな?
そのへんはよくわかりませんが。。

・なぜ本を作るのか
(なぜリトルプレスやジンでなくてはいけないのか)
・何を表現しようとしているのか
・表現することにどんな意味があるのか

作り手へのインタビューで構成された一冊です。
何かを表現したいと思っている私として、
こういう手段もあるのかぁ、と参考になりました。

そういえば、中学生のころ、そういうものを
たくさん購入していた時期があったのを思い出しました。
絵や小説や詩が載っているのですが、
そうやって自分たちなりに表現している大人(大学生とかでしたけど)が
同じこの世の中にいるんだ、ということは、
中高生のしんどい時期を生きる上で、
ずいぶんと力になったように思います。

「何か」を通して誰かとコミュニケーションをとりたい。
その「何か」が、インタビュイーにとってのリトルプレスだったわけですね。

きのう会った友人が、
「最近豆本をつくっているんだ〜」
と言っていて、タイムリーでした。

(引用)----
「何かを作り上げることは容易ではありませんが、
その先にあるものを知って、作り始めることは意外と簡単です。
(『まえがきにかえて』より)」
(引用ここまで)----





2013年6月25日火曜日

「日本で最も美しい村」



どんだけ本読んどんねん!って感じですが、
実際、図書館の貸し出し制限冊数を超えてました。。
こんなに本を読むのも、小学校の夏休み以来です。

こちらは、中身はあまり詳しく読んでいないのですが、
表紙の棚田の美しさにひかれて、閉館ギリギリで思わず手にとっちゃった本。

この棚田は、福岡県八女市星野村です。
八女市は久留米のちょっと南あたり。
棚だって美しいけど、手入れ大変なんだって話を別の本で読んだな。
そりゃそうか。

中身はじっくりとは読んでいないのだけど、
飯舘村が載っていたのが、切なかったです。。


日本で最も美しい村についての活動
(自分の出身県が載ってないのが残念!)

世界の「美しい村」のウェブサイトも、見てたら行きたくなってしまう!




「人はなぜ存在するのか」


いかにも人生に悩んでる人が読みそうな、
すごいタイトルの本を借りてしまいました。。

齋藤さんの本は、今回も何冊か借りて見ているのですが、
「ここポイント!」というところがボールドになっていたり、
文字の大きさや行間などが絶妙のバランスになっていたり、
とにかく読みやすさが魅力だと感じます。

もう5、6年ぐらい前に速読スクールに通っていたとき、
先生が最初に勧めてくれたのが、齋藤さんの「ガツンと一発」シリーズでした。
ちなみにこれ、小学生ぐらいのこども向けの本なんですが、
大人が読んでもけっこうガツンとくらわされます。

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将来に対する取り越し苦労と過去についての後悔の念の
両方に攻められて、現在を失うこと。
このようなクヨクヨする生き方は、消極的な気質に由来しているのではなく、
単に「思考の深さの問題ではないか」とまず、ガツンと一発。。



今の時代に生きる私たちは、現在(今)を感じる時間的な心のゆとりがなく、
自分の存在を徹底的に深く思考していない。
次から次へと羅列される膨大な情報を処理するだけで手一杯になり、
あらゆる認識が浅くなってしまう。
あるいは、「自分の生きるエネルギーをためるプールがあるとすると、
底に穴が開き、エネルギーが始終漏れているような状態

あああ、まさにここ1年半の私の状態がこれだったのでした!

そして今まさに、
「今」を感じること、
エネルギーが漏れないように穴を塞ぐこと、
その二つのために、懸命に手法を探しているところでした。

そこで齋藤さんは、穴を塞ぐためには、
視野を広げることに尽きる」と言い切ります。

その視野を広げるために、この本では、
宗教、哲学、宇宙史、人類史など、様々な角度から、
「存在」についてアプローチしてくれています。
「こんな考え方もあるよ」
「こういう視点はどう?」
など、手を変え品を変え、提案してくれています。
齋藤さんが提案しているというより、
これまでに生きてきた偉人たちの言葉を
齋藤さんがイタコ的に今の私たちに伝えてくれているようでもあります。



時間や場所やスケールの軸を少し動かしてみるだけで、
ずいぶんと世界の見え方が変わります。
というより、「現在を失う」ことは、
渦中にいるととても絶望的な感じがありますが、
ほんの少しの「軸の移動」で心もちや顔の表情まで変わってしまうぐらい、
単純なことでもあるのかと思います。
ただ、そのほんのちょっとの軸の移動や、発想の転換が、
「神経が摩耗し、疲弊」しているストレス状態ではできない。

まずは、坐禅のように、過去も未来もなく、ただ「今」に
心を集中させるような時間をまずとったあとに、
はじめてできることなのかもしれません。

実際は、社会からはじき出されてしまうような恐れから、
ぼうっとすることもできないでいたわけですが。

自分にとっての心の礎石がなんなのか、私自身も探っているところです。
できるだけ毎日、身体を動かして、自分とつながっていることを確認するとか、
自分だけの安心で安全に孤独になれるretreatの時間をもつとか、、
・・・なのかな、と思います。



齋藤さんはまたこうも書いています。
「仕事では常に他者からの評価が自分の価値を左右する」
「他者からの評価が良くなければ、だんだん自信を失います。逆に他者の評価が良ければ、自分ではいまひとつと思っていても、次第に気分が良くなってきます。」
社会的な存在意義。
これだけが自分の存在意義のすべてになってしまうと、
常に他者に振り回されることになってしまう。
自分の心の礎石どころではなくなります。
でもこれで苦しんでいる人も多いのではないかと思いますが、どうでしょうか。



またSNSのメリット、デメリットについても触れられています。
「他者とのやりとりが多くなりすぎてしまうと、何かに集中する時間が取れなくなる」
中高生について言っているわけですが、大人にも当てはまります。

私は最近SNSを本当に気が向いたときだけ、
チェックしたり投稿するようにしたら、
ずいぶんと気が楽になりました。
中にはもちろん有益な情報もあって、
SNSをやっていなければ知り得なかったものもたくさんあるわけですが、
情報を取ろう!と思って気を張っているその時間やストレス、
有益だ!と思って飛びついたものの、自分が本当にほしいのかどうか
判断が浅くなってしまう不安。
今は、たまたま除いた時に、流れてきた情報にピピっときたら、
それがご縁だと思うようにしています。

ちょっと前はそれがもうaddictionレベルに達していたんじゃないかと思います。
何かにaddictするということは、
それ以外のどこかに軋轢や圧力や不満があって、
それを見ないように、それについて考えないようにいたんだと思います。
あえて、他者が時間を奪うことを許している状態というのか。

それをaddiction(依存)ではなく、過度な刺激から離れて、
リラックス、集中、気晴らし、温かさを感じるといった、
より健康的な方向へ向けていくことが、心の平和のために
必要なのではと感じています。



p158「中高生の相談相手には大学生を」
のところは、最近カタリバさんとお仕事したことがあったり、
大学生と接する機会が多いことから、本当にこの「ナナメの関係」の大切さを感じています。
「サザエさんで言うところの、カツオにとってのユキエさんのような」と表現されていてわかりやすかったです。
最近ようやくわかってきましたが(恥ずかしながら)、
中高生でなぜ反抗期があるなのかというと、
自立して、自分自身の人生や自分自身の家庭をつくるためには、
一旦自分の出自や属しているコミュニティを否定するプロセスが必須なのですよね。
だから、何か悩みがあっても、親に相談できない。
これは当然です。
そこでやはり、「ナナメの関係」なのですね。
先日記事で書いた「自分を育てる読書のために」でも同じような関係がありました。
これも私の人生のテーマです。(テーマ、多いな。。)



途中説教臭いところもありましたが(齋藤さん、スイマセン。。)、
今の私にとって示唆に富む一冊でした。

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本書で紹介されていた書籍の中で、私もオススメの二冊

ネイティブアメリカンのイロコイ族が口承だけで伝えてきた
部族の成り立ちから現在までの一万年の物語。


◆「大地
パール・バックの不朽の名作。長いけど、もう一度読みたい。。
今なら読めそうな気がする。
“十九世紀から二十世紀にかけて、古い中国が新しい国家へ生れ変ろうとする激動の時代に、大地に生きた王家三代にわたる人々の年代記。(Amazonより)"




2013年6月24日月曜日

「村上ラヂオ」



「シドニー!」を読んで以来、久しぶりに村上さんのエッセイを読みたくなって、
二、三冊借りてきたうちの一冊。

◆p118「教えられない」
夏目漱石が学校の先生を辞めて、作家になった後に
近所のこどもたちに英語を教えてやるというエピソードがほのぼのとしてよかった。
「英語教師 夏目漱石」(川島幸希著 新潮選書)もぜひ読んでみたい。
漱石については、小説よりイギリス留学時代について講演した
(たしかそうだったと思うけど)
「私の個人主義」が印象的。
挫折と悲哀がたっぷりで、なんかこう、
大先生というより「お父さん......!」という気持ちになる。

ちなみにだけど、世の中にはこんなことをしている人もいる。
  【「こころ」の手紙を実際に書いてみる】



◆p186「けんかをしない」
最近つらつらと考えていたことでもあったので、
そうそう!と思わず心の中で叫んだ箇所。

(引用)--------
「かなりの確信を持って思うんだけど、世の中で何がいちばん人を深く損なうかというと、それは見当違いな褒め方をされることだ。そういう褒め方をされて駄目になっていった人をたくさん見てきた。人間って他人に褒められると、それにこたえようとして無理をするものだから、それで本来の自分を見失ってしまうケースが少なくない。」
(引用ここまで)--------

人から褒められるのはうれしい。
でも同時に勘違いしない冷静さもなくては、ってことだよね。
人の褒めには、願望とか期待が過分に乗っていることもあるから。



◆p212「あとがき」
このエッセイはananに掲載されたものだそう。
村上さんとananってちょっと意外な感じがしたのはなぜだろう?
そして、今ananってどの世代に一番多く読まれているのだろう?
私は、事情(というほどのものでもないけど)があって、
小学校6年生の時に初めて買って、
その次はたしか高校生か大学生だったと思う。(間はオリーブ)

(引用)--------
「若い読者を対象にして書くにあたって、ひとつ前もって自分なりに決めておいたのは、安易な決めつけみたいなことだけはやめようということでした。『こんなことは当然みんなわかっているはずだから、いちいち説明する必要なんてないだろう』というような前提を含んだ文章は書かないようにしようと。それから何が正しくて、何が正しくないというような押しつけがましいことも、なるべく書かないようにしようと。」
(引用ここまで)--------

こういう姿勢をとるって実はけっこう難しい。
気づくと「前提含み」「正しさの押しつけ」をしてしまう自分がいる。
育児にしろ、仕事にしろ、生きて人と関わる上で、
意識しておきたいことだと思った。


「村上ラヂオ」は続編があるようなので、また図書館で借りてこよう〜

折り紙: あじさい

折り紙であじさいを折ってみた。

カレンダーの絵の部分や、
息子が保育園で描いた絵を
窓に見立てて、
台紙にしてみたら、
楽しいコラボになった。

こどもとこういうのを作るのは、
とても楽しいひととき。

私は小さい頃、工作好きで、
きれいな紙、
手触りの面白い紙とか、
リボン、シール、、
とにかくなんでもとっておいて、
工作するのが大好きだった。

こどものおかげで、
あのワクワクを
もう一度体験させてもらってる感じ。

「デザインあ」をやってみた

息子が、デザインあをやってみたよ!
というので、見に行ったら、
こんなんができてた。

なるほどなぁ。
分解して並べてみることの面白さが、
じぶんで作ってみることで、
さらに実感できたらしい。

こどもってすごいな。

すごいといえばこの、
上野の国立科学博物館の
海洋堂製のフィギュアもすごい。
「ティラノサウルス(骨格座りポーズ)」

マニアックすぎる。。

2013年6月20日木曜日

あじさい

目の覚めるような色の紫陽花。
ピンク、パープル以外の表現を知らない自分が残念すぎる。。
日本は四季があるから、その時期しか咲かない花の方が、多い?のかな?
ということは、常夏の国では、
いつでも咲く花ばかりなんだろうか。

「自分を育てる読書のために」



途中で何度も涙が出てしまった本です。

岡山の小さなまちの中学校に学校司書教諭として勤務したときの経験から、
今の中学生と大人との関わり方、読書体験の支援の在り方について綴った一冊。

私は小さいときから図書館は大好きだし、学校の図書室にもよく行ってました。
自分の大学では司書の単位が取れなかったので、
別の大学の公開講座に夜間通って資格を取ったりもして、
このまま司書になるのかな、と思っていたら、横道にそれて今に至るわけですが。。

そんな自分自身の経緯もあり、「こどもと読書」も、関心テーマのひとつにあり、
図書館で何気なく手に取りました。
何よりタイトルに惹かれた。
「自分を育てる読書のために」
自分を育てる、ってまさにそうで。
でもそれは大人がある程度のところまでは丁寧に用意してあげないと、
こどもの自主性に任せているだけでは難しいのではないかな、とも感じていたので、
「はじめに」から大いに共感しました。

(引用)----------


「なぜ中学生から大学生にかけて、読書することがとりわけ大切になるかというと、それは、広い意味での思春期にあたるこの時期が、嵐の海を渡るようにあぶなっかしいものであるにもかかわらず、大人からの直接的な手助けが受けにくくなるのがふつうだからです。」

「物語から得た経験と照らし合わせて、自分で判断しようとする」

「いま「物語から得た経験」と言いましたが、まさにここに読書の大きな意味があります。「白雪姫」ひとつを参考にしただけでは、そう柔軟な判断はできないでしょうが、昔話にはずいぶんいろんなものがあって、相反するメッセージをもつものも珍しくないくらいですから、たくさんストックしておけば、岐路に立たされたとき目の前の選択しが見えやすくなります。創作文学になれば昔話よりも描写がリアルで、感情移入がしやすいので、主人公たちが失敗や挫折を乗り越え、自分の生き方を見出していく道のりをともにすることで、自分自身が問題に直面したとき、どうすべきかを判断する知恵や、困難に立ち向かう力を得ることができます」

「でも、すっかり本離れしている今の中高生たち、ゲームやインターネットに愉しみを求め、読むとしてもケータイ小説くらいという中高生たちに、どうすれば有能なアドバイザーになりうるような本を手にとってもらうことができるのでしょう」

(引用ここまで)----------




本文は、司書の小幡さんが、時に涙しながら、粘り強く見守りながら、
こどもたちと共に成長している姿に、なぜか涙がでてきました。

こどもたち一人ひとりの心の成長を
読書支援という形で見守ってくれる先生がいる学校。素敵。。

個人的にも、自分の中高生時代を思い出して、
既に読書の習慣はあったものの、
中には行き詰まって読み進められない本もあったので、
「先にもっと面白いことが待っているから、もう少し読んでみない?」と
言ってくれる人がいたら、どんなに嬉しかったか、と思います。

お客さんがほとんどこない家で、
親や近所の人、友だちの親、クラスの先生、習い事の先生以外に
大人と接する機会がなくて、余計そう思うのですが、

いわば図書室というサードプレイスで、
「聞いてー」
「教えてー」
「私にぴったりの本ってどんなん?」と気軽に聞ける人がいたり、
児童文学について熱く語る人がいたら、
どんなに素敵なことかと思います。

図書室が、学校というこどもたちが日常を過ごす場の中に
自然に組み込まれている、というのがまたいいですね。
もちろん図書室に行かない子は近づきもしないのだけど、
友だちに誘われて、ふと通い始めることもあるだろうし、
学級文庫や朝読や図書室を使った調べ学習があると、
足を運ぶ機会もあるでしょう。

この本は、選りすぐりの児童文学の紹介にもなっていて、
私自身が「あれも読みたい、これも読みたい」と思ってしまうほど。
こどもたちとのふれあいや成長のエピソードと共に本が登場してくるので、
より魅力的にうつるのかもしれません。


「ホラー小説やケータイ小説、アニメやゲームのノベライズ版など、
たいして頭を使わなくても欲求を満たしてくれるようなお手軽な読みもの」と
「思考力と想像力を総動員しないと読めないような質のいい物語」
との間を行き来することが大切ではないか、と小幡さん。
私も、そういうものを読んだこともあるけれど、やっぱりすぐにやめてしまったな。
どれも似たり寄ったりな内容で、「私にぴったり」感もなくて。
背伸びしていろいろ読んでみたけど、それも結果的にはよかったと思う。
思春期は揺れ動きながら行き来をして、「これ!」というものが見つかっていくのかも。

親だけではもうどうしても見守りきれなくなる思春期の時期。
学校には、充実した図書室と学校司書教諭の存在が、不可欠なのだということを痛感します。


エピソード一つ一つに一瞬のきらめきがあって、
それが美しくて、涙が出るのでした。
読書好きな、子育て中の方にもぜひ読んでほしいなぁ。


2013年6月19日水曜日

「あの画家に会いたい個人美術館」


「個人美術館が面白いよ」という話を、旧友から5〜6年も前に聞いていた。
やはり彼女には先見の明というか、世界を独特の角度で切り取る才能がある。
そんなことを思い出した、この一冊。
(ちなみに2009年刊)

「美術の教科書のあの絵の!」という人から
「あー、なんとなく聞いたことあるかも?」とか
「すいません、今回初めて知りました」という方まで、
個人美術館(一人の画家にスポットを当てた美術館)がずらりと並ぶ。

この本の素敵なところは、日本各地を旅しながら、
その時代のその土地が画家や絵に与えた影響を丁寧に探りながら、
画家の人生を追体験できるところだ。
紀行文のようでも、インタビュー集のようでもあり、
伝記のようでも、美術書のようでもある。
なんとなくおトク感がある。

この本の執筆をされた大竹昭子さんは、
ノンフィクション作家、エッセイスト、そしてインタビュアーでもあるとのこと。
取材に基づいた丁寧な考察と、
画家や作品とまるで対話するように向き合っている様子が、読んでいて心地好い。

行ってみたいのは、

・大川美術館 松本竣介記念館(群馬県桐生市)
 大川さんという方(会社員だったらしい)のコレクションを集めた美術館。
 7000点(作家400名)という量は、個人レベルでは有り得ない、驚き。
 ハーブ&ドロシーを思い出す。
 松本竣介の生き様も惹かれるものがある。
 東京で昨年回顧展をやっていたらしい。行きたかった、残念。

・真鶴町中川一政美術館(神奈川県足柄下郡)
 向田邦子の本の装幀や、自宅の虎の絵(もう我は駄目だと思ふときもある、やってゆかうといふときもある)などで知った。
 生で見て、エネルギーをもらいたい。

・熊谷守一記念館(岐阜県中津川市)
 要町の熊谷守一美術館の方は先日訪れたので、こちらもぜひ行ってみたい。
 近くに温泉もあるようだし。
 
などなど、要は全部訪れてみたいのだけど。。

それにしてもどの画家の人生も、またその周りの家族の人生も、
壮絶というか奇抜というのか。
困窮の中、夭折する画家も多い。
青木繁なんて、凄まじいといってもいい。
生きるとは何か。
そんなことを考えてしまう。

この本には載っていないけれど、
先日訪れた佐伯祐三アトリエ記念館も、私の好きな写真家植田正治写真美術館
いわゆる個人美術館か。
そうそう、石神井のいわさきちひろ美術館も。
こうしてみると、全国にはたくさんの個人美術館があるのだな。

個人美術館では、「彼もここから見えるあの木を眺めていたのかな」とか、
など、画家に少し近づける気がして嬉しい。

多くが辺鄙なところにあるが、どれもわざわざ訪ねていく価値はある。
そこでしか感じられない空気があり、見られない風景があるから。
むしろそのためだけに旅に出るなんて、贅沢な愉しみだ。

「孤独のチカラ」

自分の中の孤独とどう向き合うか、というのが今の私のテーマ。
というわけで、ズバリなテーマの本を読んでみた。
齋藤さんの文章は平易なので、その分ぐっさり刺さる。
「独りの時間をもつ」ことは、産後からずっと必要だという認識はあったけど、
なぜ必要か、とか
どんな時間をもつか、について自力では言語化できていなかった部分を、
齋藤さんがしてくれた感じ。


(引用)---------

「つまり私の提案は、一人の時間をリラックスして過ごそう、自分自身を癒そうという主張ではない。もっと自分自身に向き合うような時間、もしくは自分の量を深めていく時間を持とう。それこそ脳を真っ赤に燃え上がらせる知的行動のひとときは、誰もが持つべき孤独なのだ」

「人といるときはどうしても自分を奪われてしまう。それは別にネガティブな意味ではなく、自分を譲っているからである。だから、一人になって<自分の中心を取り戻す>ことが必要だとサートンは言う。サートンは<孤独>の中に創造の豊かな時空を見ていた。彼ら芸術家が精神的に強いのは、孤独というものの力を自分で技にできているからだ。つまり、人としての強さは、単独者になれるかどうかに尽きる。」

「森の中に行かなくても、火や水を眺め、土をこねているうちに、体の感覚がよみがえってくる。地水火風という宇宙を集約したものと自分はつながっていると想像することで、充たされていくのを感じるはずだ。これができると、孤独への適応力が増し、周りのすぐそばの人間に対して「私をわかってほしい」という過度の期待をしなくて済む。」

「もし意識の行き場がなくて苦しいときは、大いなる想像力で自分はどんなときでも自然に抱かれていると思うことだ。そのとき人は、孤独であっても豊かになれる。そのように、一人でいることを肯定できるような地水火風の夢想のイメージを何か獲得しておくと、孤独がとても尊いもののように思えてくる。」

「一人で生まれて一人で死んでいく以上、人間はどこかひとりぼっちのやるせなさを持って生きるのが当たり前だ。そう思うことで私たちは、孤独が自家中毒的に自分をネガティブに切り刻むところから抜け出すこともできるのだ。」
「レイン(※精神科医のR・D・レイン)によれば、自己と肉体に一体感を感じている<身体化された人間>は、他者や世界との関わりに現実感を持てるが、自己と肉体が断絶して、自己が<真の自己(内的自己)>と<にせ自己>とに分裂してしまうと、人は現実感や身体感覚を失い、体験を現実のものとして知覚できなくなる。このように身体化されていない、世界との間に亀裂が生じている人間は、生の実感を持つことができない。また、世界の中で<くつろぐ>こともできない。これが続くと、引き裂かれた自己と現実世界とのズレはますます広がっていく。そのように、自分自身と世界とが切り離されたような状態は、大変危険なのだ。
 逆に言えば、密接に連合した自己と身体が<外の世界>とつながっている感覚をもつことで、ひとりでいても充たされている手応えを得られる。つまり孤独に押し潰されないためには、身体との一体感を大切にし、仲よくしておくことが基本である。
 このことは意外に軽んじてはいけない。自分自身の体を快適に感じると、自分と関わる誰かがいなくても精神は心地よくいられるのだ、自分ひとりでも平気だと思えると、肝が据わる。」

(引用ここまで)--------


孤独におそわれるときには、身近なつながりにすがりたくなるけれど、
自分だけの孤独をもち、しっかりと味わったあとにこそ、
つながりの本当の意味がわかるのかもしれない。

時には、今の私のようにまとめてもつ、ということも必要かも。
とはいえ、ふだん自力でそれをするのはなかなか勇気もいるし、
そこまでの切迫感もない。
でも身体を壊して知るのも嫌だ。
となれば、やはり習慣として孤独の時間をもつことを
意識的にやらなければいけない。

自分にぴったりの方法で、見つけられたらな。


2013年6月17日月曜日

「かんさい絵ことば辞典」


やっぱりピエ・ブックスは、私好みの本を出してくれるよ!

楽しい!懐かしい!
言う言う〜!
って心の中で連発。

「これあの人の口癖!」と、顔が浮かんで来たり。
逆に、「これは聞いたことないわぁ」っていうのも、ぎょうさん。

私の好きな「かんさいことば」挙げてみました。
・なんしか(これは元々は使ってなかったけど、大阪で暮らし始めてから知った)
・いいっとする
・いらち
・びびり
・げら
・いちびり
・あまえた
・ええかっこしい
・しもた!(どんくさい感じがかわいい)
・あんじょう(ばあちゃんが言ってたかも。ぬくもりを感じる)
・なおす(東京育ちの息子もいつのまにか理解w)
・よう〜せん(とても〜できない、の意。これ使えるようになると関西人度かなり高い?!)
・なんやようわからんけど(というのも辞典にのってておかしい。こういう言い回し、英語ではなんていうのかな)
・つっかけ
・しんきくさい
・モータープール(これが東京になくてびっくりした)
・やいと
・じゃまくさい
・おしピン
・あほほど

(辞典には載ってないけど、「ナイロン袋」も私は好きです)

こうして見ると、人の性質を表す言葉に惹かれてるようです。
やはりその土地の言葉でしか表現しようのないニュアンスってあるのですね。
東京に来てからますます、関西弁の人としか関西弁で話せなくなってしまってますが、
(我慢しているわけではなくて、自然とそうなる)
ちょっと人格変わるような感覚があります。
日本語と英語と同じぐらいの、人格変化(?)の瞬間を感じます。

どちらが楽かと言われたら、圧倒的に関西弁です。
どこでも気にせず関西弁な、かんさい出身の人を羨ましいと思っています。

前職の社長は、神戸出身でしたが、英語で話す時も関西弁でした。。





「シドニー!」


2000年開催のシドニーオリンピックとその周辺を
村上春樹が綴るエッセイ。

村上さんのエッセイはもともと好きなので、つるんと読んでしまった。
Down Underが、オーストラリアとニュージーランドを指す言葉だと、はじめて知った。
オーストラリアの歴史や、特有の動植物の話や、
オリンピックが開催国にもたらすありとあらゆる影響についても、
私の想像を超えていたり、日本と比べるとスケールが全然違っていて、
とても興味深く読んだ。

いつもヨーロッパにばかり関心を向けていたので、
自分にとってのオーストラリアって、あまりイメージがない分、
余計に面白かった。
機会があれば、ぜひ訪れてみたい場所になった。

また、オリンピックの中継としても楽しめた。
本当にテレビでは放映されないし、伝わらない、
現地だからこそのリアルがあるんだな、ということがわかった。
当たり前だけど、映像だからリアルというわけじゃない。
女子400mの迫力は、すごかった。
アスリートに、こんなに共感したこともなかったかも。


ところで、「旅エッセイ」の書架に行ってみると、
現地に住んでいる人のエッセイも含め、いろんな本があるのだけど、
残念ながら、だいたいが面白くない。

どこへいって、
なに見て、
なにを食べて、、、
ということが、延々と綴られている。
「で?」と言いたくなる感じ。
その地へ行ってみたような感覚にもならないし、
行ってみたいという気も起こらない。

そういう旅エッセイと、「シドニー!」や
「遠い太鼓」「雨天炎天」「辺境・近境」などと、
何がどう違うのだろう。

いろんなことがあると思うけど、
細部を丁寧に「見ている」か、
見えているものの後ろにあるものまで、冷静に見ようとしているか、
は大きいと思う。

作家としてのディテールの描き方もあるだろうし、
関心の領域が、やはり広い。
人も物事も広く深く捉えようとしている。
深みを自分から見ようとしている。

その一方で自分自身をできるだけ心地よい状態に置こうとする努力と、
習慣の継続への熱意を感じる。
お腹が空いたときに、ちゃんと食べるとか、
できるだけ美味しいものを食べようとする姿勢とかが、
とても好ましい。

私はお酒は飲めないけれど、
村上さんの文章を読んでいるといつもビールが飲みたくなるし、
美味しいサンドイッチが食べたくなる。

そしてなぜか「さん」づけになる。。



(引用)------

p145
「現場でそういうのを見ていて、心から実感するのだけれど、マラソンにおいてはトップ・ランナーだけが勝者ではない。人には一人一人の戦いがある。僕らはみんな、それぞれの場所で、それぞれの戦いをしているのだ。」

「ピエール・ド・クーベルタン男爵は、“オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある”と言った(といわれている)。
  (中略)
僕が読んだ本によれば、彼は実際にはこう言ったそうだ。
『人生において大事なことは、勝利ではなく、競うことである。人生に必須なのは、勝つことではなく、悔いなく戦ったということだ』」

p225
「僕らにできるもっとも正しいことは、弱さが自分の中にあることを進んで認め、正面から向き合い、それをうまく自分の側に引き入れることだけだ。弱さに足をひっぱられることなく、逆に踏み台に組み立てなおして、自分をより高い場所へと持ち上げていくことだけだ。そうすることによって僕らは結果的に人間としての深みを得ることができる。小説家にとっても、アスリートにとっても、あるいはあなたにとっても、原理的には同じことだ。
 (中略)
あるときには人は勝つ。あるときには人は負ける。でもそのあとにも、人は延々と生き続けていかなくてはならないのだ。」

(引用ここまで)------

本を読む技術と習慣


最近、久しぶりに大量に読書をしていて、
本が読める技術をもっているってありがたいなぁということを痛感してます。
本を読むって、技術というほど大げさなことではないような気がするけれども、
読もうとしても、どんな本であっても、
全くページが進まない人がいるのを見聞きすると、やはり確かにあるのだと思います。

私は、父の仕事の関係もあって、物心ついたときから家に本があふれていて、
それこそ玄関、廊下、トイレ、リビング、ダイニングまで、
本棚、本だらけでした。

ご飯を食べるように、お茶を飲むように、本を読んでいたし、
外でもよく遊んだけれど、家の中で独りで黙々と絵を描いたり工作したり、
自分の世界ももっていたので、
自然と本を読む技術を身につけていました。

おもちゃや可愛い服は買ってもらえなかったけど、
本なら何冊でも買ってもらえた。
(当時はずいぶん恨みに思ったものですが...)

図書館のつかい方を教えてくれたのも、父でした。
その館にない本があっても、他館から取り寄せてくれることや、
他館になければ購入を検討してくれたり、
わからないことがあったら調べ方の相談にのってくれる人がいることも、
全部父が教えてくれました。
おかげで、今でも図書館は大好きです。


独りになりたいとき。
独りになってしまったとき。
自分の語彙では言い表せない思いがあるとき。
新しい世界を知りたいとき。
いろんな視点を得たいとき。
自分の好きな世界の中で飛び回りたいとき。
共感を感じたいとき。

小学生、中学生、高校生と、心と身体が成長するにつれて、
難しいことも増えていったときに、私を支えてくれたのは、やはり読書でした。
(数人の本当に心通じる友人と、ふるさとの自然も大きかったですが)

今も、どんなときも、本はよき友人です。

読書は、自発的な行為。
自分でイメージを膨らませ、世界の輪郭を見つけていく作業。
書かれたことから何を読み取るのかは、読み手次第。
そういう豊かな体験を、自分のこどもにもさせてあげたいな、と思います。
映像に触れる機会の方がずっと多くなってしまっているけれど、
本からしか得られない体験も、たくさん重ねてほしい。

いつか大きくなったときに、本を読む技術は、きっと助けになると思うのです。

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ちなみに上の写真は、先日まで開催されてた「デザインあ」展でのもの。
木でできた「本」の背表紙を二段で入れ替えるというもの。
字の読めない息子が適当に組み合わせたらこうなりました。
どういう根拠でこうなったかはわからない。
でも、「ロミオとひこぼし」は、どっちも男なのが笑える!





「李陵・山月記」


私は、同じ本を読み返すことはあまりなく、
自宅の書架にあるものでも、五冊程度しかないと思います。
そんな貴重な(?)一冊がこちら。

「山月記」は、確か高校の国語の教科書に載っていて、ご存知の方も多い一編。
漢文体の美しさ、かっこよさに惹かれました。
書き出しのところで、もうぐっときてしまう。

(引用)------
朧西の李徴は博学才潁、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
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注釈がないとわからない部分もありますが、
そのまま読んでも雰囲気は伝わってきます。
そういえば、先日、村上春樹の「シドニー!」を読んでいて思ったのですが、
注釈が同じページに載っていると、読みやすくてありがたいですね。
わざわざ最終ページに指を入れたまま、本編を読むのはちょっと面倒くさいのです。

今、私の手元にあるのは、新潮文庫の「李陵・山月記」。
ここに収められている「山月記」「名人伝」「弟子」「李陵」、
どれも一編ごとに味わい深くて、何度も読み直したいものばかりですが、
最近遅まきながら良さがわかってきたのが、「弟子」。

孔子と、弟子の子路との出会いから別れまでが、丁寧に描かれています。
こどものように純粋でまっすぐな子路を、温かく見守り時に諌め、育む孔子。
師を尊敬し愛しながらも、わからないことはわからない、と素直にぶつけ、
最後まで自分の信じる道をゆく子路。

師と弟子の愛情が、他の弟子との交流や、戦乱の時代を背景に綴られていく様は、
3時間映画のようにドラマティックでありながら、
淡々とした漢文体の中に、抑えた美しさがあり、
文庫本で言うと5mmの厚さしかないのですが、それ以上に壮大な物語として読めます。

どの話にも共通するのが、「孤独」。
学があり、鋭い感性をもつ者にとって、避けがたく、しかし堪え難い苦悶。
そして
「何のために生きるのか?」
「生のうちに何を成すのか?」
という問いかけ。

また、李徴、李陵、司馬遷にあらわれる、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は、
自分自身の苦しみを、幼いころから慣れ親しんだ中国の歴史上の人物に投影して、
書くことで表現しようとした中島敦自身のものであったのではないか、と思います。

持病の喘息が元になって33歳で没。
年表も丁寧に追いながら全編を読んでいくと、
中島敦という人の姿も見えてくるようです。

ちなみに、中国の昔の刑罰についての表現がいくつもでてきますが、
どれも「ぎょえ〜」と言いたくなるような刑ばかり。
もちろん、刑罰の残酷さは、中国に限らないですが、
道義の感覚が、時代によってこうも違うのかと思うと、唖然とします。


読書会を開いて、音読しながら、
孤独や正義など普遍的な問いについて語るのもいいなぁ
と思ったりしているところです。










2013年6月12日水曜日

「なるほどの対話」


河合隼雄さんと吉本ばななさんの対話集。
(このころはまだ筆名が吉本ばなな)
どちらも好きな方なので、きっと面白い話が繰り広げられているはず、
と図書館でパラパラ立ち読みしていたら、
冒頭のところでびっくりすることが書いてあったので、
急いで借りて帰って読みました。

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(引用)
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吉本:(中略)
高校のときは本当に暗かったです。寝てばっかりいました。自分でも「よくあれだけ寝られたな」と思うほどです。

河合:どの程度、寝ました?

吉本:それはそれはすごいですよ。学校に行っても、ずーっとずーっと寝てるんです。作家になってから高校のときの先生が「高校のときの吉本さんはどうでした?」って訊かれて、「吉本さんのことで覚えているのはココ(頭頂部)だけだ」って(笑)。あれだけの眠気がどこから来たのか、ちょっとわからないです。

(中略)

学校から帰る間はかろうじて起きていて、帰ったらまた寝ちゃうんですよね。で、ご飯食べてまた寝て、夜また寝るんです。

(中略)

河合:外界で起こっていることが、吉本さんの内界で起こっていることとまったく違うから、それはおそらく、拒絶するより仕方なかったんでしょう。

(中略)

ぼくはよく「さなぎの時代」と言うんだけれど、まさにそれですね。なかではすごく変わっているわけだけど。

(p16)
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いやはや、まったく私の高校時代、そのまんまでした。
私も寝てばかりいた。
食べて寝て、食べて寝て。
学校には一応行くのだけど、時間通りに辿り着けない。
いつも遅刻していて、3年間で300回ぐらい遅刻しました。
あとは、出たい授業だけ出る、というちょっと考えられないこともしていて、
午後から行くとか、
午前の授業だけ出て、午後から帰るとか。
それもバスと電車を乗り継いでいく学校から、徒歩で帰ってみるとか。
湖をぼーっと見ながら読書してるとか。
それで欠課も150回ぐらいだった。
それでもあまり親にも先生にも怒られなくて、放っておかれたのが本当によかった。
ばななさんのエピソードを読んで、そういうことだったのか、と長年の謎が解けました。


他に印象的だったところを挙げてみました。

・日本では女性の作家の立ち位置が難しいという話題。
ドイツ在住で、日本語とドイツ語で小説を書いている多和田葉子さんのエッセイにも似たような話があった。(P96)

・「自分は普通に生きている」と思っている人たちの圧力から外れたときに、
もう一度そこへ戻ることの大変さのことも、すごく共感できた。
その難しさがあるときに、「社会に復帰することを目標にして、
そのために自分を殺したら意味がない」と河合さん (p108)

・「時代精神に合う人生を送る巡り合わせの人はいる。その人はそういうパターンにうまくハマっているだけだから“軽薄”、“表面的”と腹を立てる必要はない」
これは私の中にもあった怒り。なるほど、と納得。(P112)

・「クリエイティビティのある人だけで一緒にいると、みんな疲れてしまう。あまりにも笑いすぎたり、とにかくエネルギーを使いすぎる。空間が密になりすぎて、みんなが研ぎ澄まされちゃって、鈍さがない。少数精鋭のグループは絶対ダメ。精鋭でない人が混じっているからだいたいうまいこといく。ぼやぼやしている人も必要。ただし役割をわきまえずに自分もクリエイティブだと錯覚を起こすと、悲劇が起こる。」
これ、本当にすごくわかるなぁと思わず苦笑いしてしまった。そこへ来ると私はぼやぼやしている人でいいのかも、と思える。(p122)

・「どうせ会社がつぶれるんだったら休んでおけばよかったというサラリーマンの叫び。昔に比べたら変わっていきつつある。図太いタイプの人は、「なにごとだ」って怒鳴られても、また休みます。そういう人に社会をほんのちょっとだけ変えてほしい。「帰る」って言ったら、帰っちゃいますからね。つまはじきにされても。」
私に必要なのは、この図太さ!!(p296)

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河合さん、ほんとに今も生きてらしたらな。
こどもをもった今だからこそ聴きたい話がたくさん。
学生のときに、立命館大学で公開講座を聴きに行ったことがあって、
飄々とした、でも温かい語り口を今でも覚えている。
なども、またあらためて読んでみている。

よしもとばななさんの公式サイトのダイアリーも、
時々読みに行ってみると、「そうそう」と共感することばかり。