2013年6月26日水曜日

「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」


1996年の初版で読んでから、久しぶりに今年に入って再読。
ちょっとひっかかったところがあって、また借りて再読。


◎コミットメントということ
「個人として在る」ということについて考えたくて、
今は、たくさん本を読んだり、人と話したり、
ちょいちょい出かけたりしているわけですが、
できるだけ意識的に「個人」になってみて、孤独も含めて味わってみて、
そのうちに、何に本当にコミットするのか、
を考えていっているところなんだろうなと思います。
10数年前にドイツに数ヶ月滞在したことがありますが、
その時にはじめて、個人である自分に気づいたことがあります。
それまでは、何かのファミリーや組織の一部としての自分としてしか、
自分をとらえていなかったのだけど、
そうじゃない個としての自分が、ちゃんとあったことを思い出した感じがありました。
小学校に入る前にそうだったように、
「自分が自分として在る」というのか。



◎結婚と「井戸掘り」
心理療法をしていて、治療する側への影響はどのようなものか、
という話から、村上さんの
「夫婦というのは一種の相互治療的な意味はあるのですか」という問いかけがある。

それに対して、河合さんは、
「ものすごくあると思う。だから、苦しみも大変深いのではないか。
 夫婦が相手を理解しようと思ったら、
 理性だけで話し合うのではなくて
 『井戸』を掘らないとだめです。」
と答えています。

この「井戸」というのは、ねじまき鳥クロニクルに出て来る
エピソードから取られているのだけど、
「『井戸掘り』をするために結婚して夫婦になる」
という表現は、とてもしっくりときます。
自分の言葉で説明し直すのはとても難しいのだけど。

また、
「結婚の持つ、ある面であり、大変なことだから、
べつにしなくてもいいのじゃないかと思ったりする」し、
「ほんとうに『おもろい』ことで苦しみを伴わないものはないと思う」
にも同感。

独身でも、
「結婚しかけたけど、何かでダメになった」とか、
「親や友人夫婦を見ていてなんとなくわかる」
という方はいるんじゃないかと思う。

村上さんの脚注もまた近頃考えていたことに近く、ドキリとさせられました。
「夫婦は結婚生活はお互いの欠落を埋め合うためのものじゃないかと考えていたけど、最近になって、それはむしろお互いの欠落を暴き立てる過程の連続に過ぎなかったのではないか。結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかない。そして欠落を埋めるには、その欠落の場所と大きさを自分できっちりと認識するしかない。結婚生活というのは煎じ詰めていけば、そのような冷厳な相互マッピングの作業に過ぎなかったのではあるまいか」

そういう相互マッピングの作業は、
やはり夫婦という形だからできるのであって、
また夫婦であっても、「コミットメント」の姿勢と態度がなくてはできない。

それに続く項もまた興味深い議論です。



◎夫婦と他人
「相手を「理解しよう」とし始めたら途端にわからなくなり、たいていは相手を非難してしまう(「わからんやつだ」「男/女なんて」)。
「若いうちは性的な関係は大事だし、治癒作用をもっているが、
 どこかで「井戸掘り」に移行できないと、夫婦の関係を続けていくことはできない。」
「異性を通じて自分の世界を広めることをすっかりやめてしまう人も多い。つまりエロスを別の方(例えば「古文書の解読」)に向けることに情熱を燃やすとか」

この単行本でいうところのp78〜p94のパートは、迫力があり、
思わず何度も読み返してしまいました。

夫婦の関係性、、井戸掘り、、
なんとも恐ろしいテーマですが、、
日常の延長にあるのだよなぁ。

夫婦のことについては、河合さんのあとがきにも書かれています。
「日本文化が、根っこからの改革を強いられている中で、困難な状況のひとつとして生じているのが、人間関係。それが典型的にあらわれているのが夫婦関係」

摩擦が生じたときに、どちらかが「悪い」と非難するのでもなく、
さっぱりと離婚するのでもなく、例えるなら「井戸掘り」という道をとる。
でも結局は、「個人として、どう生きたいのか」であるし、
これからの時代、河合さんが書かれるように、
「各人はそれぞれの責任において、自分の物語を創り出していかなねばならない。」
と思う。答えは自分でつくるしかない。



◎物語と身体
常々、芸術家を呼ばれる人たちは、ある種の病みをもっているからこそ、
クリエイティブなのだろうと思っていたけれど、
この対話の一連の流れから、病みだけではなく
「健常さ」と「表現(形にする力)」と
「時代の病とか文化の病を引き受ける力を持っている」
ことも必要だ、と書かれている。
病んでいるからといって、クリエイティブなものが生み出せるとは限らない。
なるほど。



◎結びつけるものとしての物語
紫式部が「源氏物語」を書くことができた要素や背景が、
現代にも通じていて、興味深かった。
村上さんの脚注にあるように、
「個人としての女性:
日本的体制に組み込まれていない。そして、時間も金もある程度ある。いわゆる出世や蓄財にあまり関心がない。このような条件を並べてみると、現在日本で創造的な仕事をしている女性に、そのまま当てはまると思われます」
私もパッと思い浮かぶ人たちは、こういう人が多い。
でも、女性でも日本的体制に組み込まれて「オジさん化」している人も多い。
私自身、思いっきりオジさん化していたけれど、
出産を機にそこから外れることができたように思う。




◎フィクションは決して力を失っていない
きのう友人と2人で読書会をして、
「もし自分がこれからも読書会をするなら、フィクションがいい」
という話になった。
もちろん、ビジネス書や自己啓発書についての読書会があってもいいと思うのだけど、
その話は今したくないという感じがあった。
その感じを上手く説明できなかったのだけど、
村上さんの
「小説の本当の意味とメリットは、むしろその対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさ(あるいはつたない個人的営為)にあると思うのです。大量の直接的な情報が潮を引いて消えていったとき、あとに何が残っているかが初めてわかるのだと思います。」という一文(二文か)が完璧に説明してくれていた。



◎どう表現し、生きるか
「その人にとってものすごく大事なことを、生きねばならない。しかし、それをどういうかたちで表現するか、どういうかたちで生きるかということは、人によって違う。生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくる。」と河合さん。
よく作家が、「小説を書かなければ生きていかなかった」と言ったり、
映画作家が、「映画しかなかった」と言っているのは、こういうことなのかと思う。
でもクリエイティブな職業(ってなんでしょうね。。?)でなくても、
誰もがこういう「業(ごう)」みたいなものをもっているのではないかと、最近思ったりします。
それが強かったり、弱かったりは、人それぞれで。

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ひっかかったところについて、いちいち書き出していたら、ものすごく長い投稿になってしまった。

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