2013年7月28日日曜日

英語で伝える、その後

オンライン英会話、
だいぶやってきたように思ってたけど、サマリーを見たら、
きょうでやっと25回でした。

回数を目標にしていたわけではないので、べつにいいのだけどね。

できるようになったのは、

・英語で話すことに慣れる
・わかったような顔をしない (わかるまでとことん質問する)
・適当な単語がわからないとき、意味を説明して先生に「ああ、それは~ね」と出してもらう
・「こういう意味?」と要約して返せる
・過去にインプットした語彙、単語、フレーズがパッと思い浮かぶ

だいぶ進歩です。

この25回の前半は、
文法のやり直しなどをして、
後半はreading articleをメインに。
やっぱりarticle は、
自分の考えが話せるし、楽しい。

オンライン英会話は、自分の生活や性格に合ってると思う。


いろいろ気づくことが多いけど、特に、英語的文化では、やはり

'What do you think about that. Why or Why not?'

がコミュニケーションする上ですごく大事なことなんだと、あらためて思います。
些細なことでも、「なぜ?」ときかれる。
相手に関心をもっていることを示すのは、やっぱり基本だな、と。

日本語では「なんで?」は質問されないことも多いように思います。習慣?文化?ある程度親しくなるとガンガン突っ込めたりするけど、、

「そうなんですね」は、まるごと聴いているようで、相槌にすぎない。

相槌は相槌で、「聴いてますよ」というサインではあるけど、話し手にとって本当に聴いてもらえた実感があるのは、要約とか質問が入ったときだろうと思う。

私も先生が自分の考えを話しているときは、もうちょっとアクティブに聴いてみよう。

今までは自分の考えを話すことで精一杯で、話しおわった途端気が抜けてたな。。


今後とも、

-複雑なことは言わない
-正確さは追及しない
-これは「本番」じゃなくてトレーニング
-気分がのらない日は無理しない

を心がけて、細く長く、楽しみながらやってゆこうと思います。


2013年7月26日金曜日

大人の友情

「やっていけそう」と
「もうだめだ」を繰り返す日々が続いて、

「もうだめだ」がやや強くなったころに、
そのことは何も言っていないのに、
会おうとか、話そうとか、
声をかけてくれる人があらわれる。

元気にさせてあげようとか、
話を聴いてあげようとか、押し付けがましいところもなく、
無事を確認して安心したい、という自分本位なところもなく。
そういうのは、すごくありがたい。

人が必要としていることを感じ取って、行動する。
私にはなかなかできないことをさらりとやっていて、
それもすごいと思う。

よく考えてみると、そういう人とは、たとえ一度でも
「自分が心をつかって話したし、
 相手も心をつかって話していた」
という実感がある。

心をつかって話すときには、
なにかすごく大切なものを、
交換しあっているのだと思う。

だから、いつも一緒にいなくても、
その感触が、深いところで残っていて、
つながりを感じられる。

友情というのは、会う頻度とか、年賀状のやりとりの有無とか、
SNSでつながっているとか、
何か形で示されるものではなくて、
心で感じるものかもしれない。
自分が感じていて、相手にとっても自分がとくべつな存在だと信じられる、
そういう関係性なのかも。


表面上は何も進行していないようでも、
一歩も動けないように見えても、
無駄なことばかりやっているようでも、
こうやって一日一日、
こつこつと、
私は何か人生にとって大切なものを貯金しているのだ。きっと。

そういう私を、
この世界は、広く高いところから見ていて、
ふいにあらわれる虹という形で、祝福してくれたりする。

41円

懐かしいですね、41円ハガキ(しかも往復)。
使おうかなぁ、と思ったけど、
最後の一枚だったので、とっておくことにします。
フィラテリストとしては、やはりときめく。

使おうにも、あと9円切手が2枚必要です。

9円切手!? 
まだあるのか?

消費税アップの直後は
たぶんたくさん出回っていたと思うけど。

往復ハガキを使う用事は、
だいたいが区のイベントの申込み(抽選)です。
「きょうび、往復ハガキって!!」と思うけど、
主催者からすると便利なんですよね。

 ・無作為抽選しやすい(厚紙だし)
 ・プリントアウトの手間がない
 ・連絡費用の負担がない
 ・E-mailより到着が確実
  (迷惑フォルダに入ったり、E-mailアドレスのタイプミスがあったり、、)
 ・入場券代わりに使える
とか、そんなところ。

2013年7月25日木曜日

「村上朝日堂」



村上春樹さんの本もどっさり読んでいます。
「村上朝日堂」は昔よく読んだので懐かしい。

気楽なQ&Aの中に、
いくつもハッとさせられるやりとりがあったりして、
けっこう時間かけつつ読んでいます。

いろんな背景をもった人が投げて来る質問に
「僕の考えは...」という形で答える方が、
ご自身で自発的にエッセイを書くよりも、
人生観や「仕事」への思いがよりストレートに表されているように思い、新鮮です。

特に興味深いのが、以下のような小説家としての「態度」。

(引用)----------------------------
「僕が小説の中で書こうとしているのは、我々のまわりを取り囲んでいる現実世界の姿です。しかし現実の姿をそのまま現実的に書いても、その中核にあるもの(つまり現実を現実たらしめているもの)は浮き彫りにされません。現実を一度すっかり解体して、自分の精神性の中でもう一度作り替えることによって、それはようやく本物の現実性を身につけるのです。僕が作り替えたものは、一見すると、現実の世界とは違って見えるかもしれません。奇妙で、非現実的なところもたくさんあるかもしれない。でも僕が描きたいのは、現実の現実以上に本物でリアルな現実なのです。」

「僕はそのような超現実的なものごとを『難解な布石』という風には考えていません。そういうものごとを好まない読者が少なからずいることは理解できますが、僕の書く物語は(一部のものを除いて)そのような激しい隠喩を必要としています。僕にとっては自然なことであるし、とても切実なことなのです。我々の魂の深い部分は、暗闇に覆われていますし、そこではどのようなことでも起こり得ます。僕らがそのような領域を理解するためには、明るい領域における論理を使用するだけでは足りないのです。」

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最近大量に物語を読んでいて、私の中で、
本を読む体験にちょっとした変化を感じたので、
上で説明されていることは、すぅっと捉えることができました。

ひとつ、すごくいいな、と思ったのが、
「マラソンで沿道の人が“頑張れ”というかけ声をしてくるのがどうも...。何か他にいいかけ声はないのでしょうか」
というお便りに対する、
「アメリカでは"Looking good!"というのが多いですね」
という回答。
「素敵よ!」というような感じだそうですが、いいですね。
頑張るっていうのもなんかちゃうよなぁ...というシーンで、
「その人の輝きや可能性を感じて、言葉で返す」
という態度が含まれているように思えて(私が、勝手にだけど)、
とても好感がもてます。

あと、「カラマーゾフの兄弟」のネタがよく出て来るので、
むらむらと読みたくなってくる。
3年ぐらい前に新訳に挑戦したのだけど、
人の名前と関係性が覚えられないのと、
長セリフに堪えられなくなって、途中で断念したのだった。
今なら読めるかな。

冷やしたぬきそば

「冷やしたぬきそば」を注文したら、思いがけないものが出てきてびっくりした。

これ、東京ではスタンダードなんでしょうか?

東京暮らしも長くなってきたけど、まだまだ知らないことが多いです。

お盆のお飾りとか違うし、うちの実家では7月は特に何もしなかった気がする。

お正月に「いわしと柊」も飾らないし。

アフタヌーンティ

先日、旧友と会って、お茶をしました。
フォーシーズンズ椿山荘のティーラウンジにて。
優雅そうですね。
。。ええ、実際優雅でした。

でもこのケーキセット、実はものすごくリーズナブルです。
滞在時間3時間で、お茶のお代わりをポットで4杯ぐらいしました。
1杯で2カップぐらい飲めるので、結局8杯ぐらい飲んでる感じになります。
普通のカフェだと1杯で600円とかしたりするので、それを考えると、
めちゃくちゃおトクな感じです。

涼しいし、庭の緑を見ながら、
妖精のように華奢で綺麗な女性がにっこりと微笑みながら、
お茶を注ぎに回っています。

お腹がたぷんたぷんしてきますが、夢中でおしゃべりをしているとあまり気になりません。

女ってすごいな、と言われるのも仕方がない気もしてきます。


しゃべり倒したあとは、庭を散策して帰りました。
滝あり、鯉の泳ぐ池あり、三重の塔あり、
七福神あり、神社あり、椿あり、蕎麦屋あり、茶室あり
、、、とまぁ、なんでもあります。

たまに綺麗な格好をして有閑マダムに紛れ込みながら、
お茶をがぶがぶと飲んで、
気のおけない友人とおしゃべりして過ごすのも、
一年に一度ぐらいいいかなと思います。

2013年7月23日火曜日

新宿御苑

日曜日は友人母子と、うちの母子で、新宿御苑にいました。
もう10何年も東京にいるのに、ちゃんと入ったのは初めて。
木陰は涼しくて、お弁当を食べたり、シャボン玉したり。
こどもが遊ぶのを見ながら、大人は大人で話したり、ゆったりとした時間を過ごしました。
「最近ふと思い立って木登りしてみたらすごくよかった。木は木登りしやすいようになんて生えてないから、こちらが身体を上手く木に合わせていく。その感じがすごくよかったんだよね!」
と、彼女が話していたのが印象的でした。

そうだね、木登りよくしたっけなぁ。
私は田舎の子だし、近くに遊具のある公園はなくて、森や山や工事現場や学校が遊び場だったね。

芝生がふかふかで、裸足になって立ってみたら、土の柔らかさや熱さや、草の湿っぽさを感じた。
地に足つくって、こういうことかもなぁ。
気持ちよくなって、身体も芝生に横たえて空を見たら広かった。

これまでに旅した、いろんな土地のことを思い出した。
今も
あの畑ではオリーブが育っていて、
あの信仰の篤いホテルの主人は、夕日を見ながら遺跡の上から神に祈っていて、
海辺のまちでは、伝統的な装束の老婦人が魚を入れた買い物かごを下げて家へ向かって歩いている。
ありありと思い出せる。
遠く離れているけど、空はつながっているののだなぁ。

東京で好きな場所が、またひとつ増えました。

2013年7月22日月曜日

ダッハウ強制収容所

夏の肌を刺すような日差しに、
毎年思い出すのは、
ミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所を訪れた時のこと。

ミュンヘンは、それを目的に行った訳ではない。
ガイドブックに小さく小さく載っていた囲みにふと気づいて、
そうしたら、どうしても行かねばと思った。



KZ-Gedenkstätte Dachau(公式HP)



門をくぐった途端、空気が変わる。
真夏なのに、なぜか寒くてたまず上着を着た。
喉がやたらと渇いて水を飲んだ。

「水を飲む」
そんなごく自然な行為さえも許されなかった人々のことを思うと、
今も胸が痛む。


ここに行ってわかったことは、2つ。

「確かに"それ"はあった」

ということと、

「人間は、人間に対してどこまでも残虐に成り得る。
 そしてその火種は自分の中にもある。」

ということ。


それを思い出させるために、
強制収容所は、保存され続けるのだろう。
私や私たちは、愚かだから、すぐに忘れてしまうのだ。
あるいは、自分の中の残虐性とホロコーストは全然別のものだと、
すぐに勘違いしてしまうのだ。


ありえないほどの数の人間が詰め込まれていた「寝台」。
今は綺麗にペンキが塗られたガス室。
死体が山と積まれていたであろう床。
拷問が行われた狭い部屋。
延々と流れている解放時の人々の表情を捉えたフィルム。
門扉の"Arbeit macht frei"の文字。
囚人たちが植えたポプラが、青空にそびえる並木道。

ひとつひとつ、現地で感じることは多かった。



周りはごく普通の民家が並ぶ住宅街で、
庭先には色とりどりの花が咲き乱れている。
当時も塀の一歩外はこうだったのだろうか。
それとも戦後に引越してきた人たちなのだろうか。
敷地の中と外のギャップが激しくて、
出てきてからしばらくめまいがして座り込んでしまった。



ドイツ国内には、ダッハウの他、
ベルリン郊外のザクセンハウゼン、
ヴァイマールのブーヘンヴァルトにも
強制収容所が現存している。

今まで、強制収容所を訪れたという人と
しっかりと話をしたことがない。
機会があれば、ぜひとは思っているのだけど。
なかなか出会えていない。
そこまでの深い体験を、
人はなかなか口にはできないのかもしれない。

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そういえば、少し前に嵐のように流行していた
「いつやるの?いまでしょ!」を聞くと、
プリーモ・レーヴィの「Se non ora, Quando?(今でなければいつ?)」
を思い出してしまって、どうしても呑気に受け取れなかった。

レーヴィはイタリア人の化学者。
ナチスのトリノ占領に対してレジスタンス活動を行ったために、
アウシュビッツ強制収容所に送られるが、奇跡的に生還。
後半生を収容所での体験などの執筆活動に捧げるが、
42年後の1987年に亡くなる。自殺とも言われている。




おいてけぼり

きのうの夜は、なぜか急に悲しい気持ちに襲われて、すっかり胸が塞がれてしまった。

眠れない。

オンラインで、みんなの楽しげな日常や熱い主張を眺めていると、終いにはイライラしてくる。

「これはなんなんだろう?」

と半分泣きながら、読みかけの本の続きを読んだり、メモ書きをしていたら、だんだん落ち着いてきて、すうっと眠れた。

朝、目が覚めた瞬間に心に浮かんだのは、楽しい夏休みが終わって、また日常へ戻っていく家族を羨む気持ち。

私だけが、まだまだ夏休み。
いつまで続くかわからない、
ひたすら孤独な日々の「井戸掘り作業」。

おいてけぼりになったような哀しみ。

そうだったんだ。

羨ましくて、悲しくて、不安で、
でも焦っても、まだ待つしかなくて、
ついでに芋づる式に出てきた過去の辛い状況と感情を思い出して、いっぱいになってたんだな、自分。

と、たっぷりと自分に共感して、

家人にも一部をポロッと漏らしてみたら、私の期待する相づちではなかったけど、少し心が落ち着いた。
そうなんだ、私はずっと聴いてもらえてないと思ってたけど、それが「聴いているよ」のサインであることを本当は既に知っているのだ。

そうしたら、

私も、私なりの日常をまた新しく始めて、小さくはあっても変化していきたいし、そんな自分を認めて信頼したいという望みが、自然と湧いてきた。

なんで出てきたのか、その形のない大きな感情は、その瞬間には名前がつけられなくて気持ち悪いし、抱えているだけでも辛い。

でもその感情が起こっても困ることはないのかもしれないという気がしてきた。

逃げなくてもいいし、押さえ込まなくていい。怖いなら布団かぶって泣くとか、落ち着けることを探せばいい。

そのネガティブな感情をまるごと受け入れて、ただ待っていると、だんだん気づく。
ちゃんと気づけるし、そういうふうになっている。

。。。といいながら、上に書いた気づきもすぐに忘れてしまうかもしれない。
でも、それでも、一旦気づいたということは、また気づくかもしれない。

と 思うことにして、文字にして一度手放すことにします。

2013年7月20日土曜日

きょうのバス停椅子

墨田区本所付近にて。
バス停椅子ながら、とてもきれいで座りやすかった。
「桐たんす更正」、、、
中古を美しく甦らせますってことなんだろうけど、なんとなく「すごく悪い桐たんす」を想像してしまう。
道で肩がぶつかったとか因縁つけてかっぱらいした、みたいな。
妄想は楽しいなぁ!

うだうだ

いろいろ決めたり話し合ったりする。
そろそろ、そういう時期に来てるかなぁと思いながら、なかなか勇気が出なくて、気持ちが逃げてしまう。
この2ヶ月は、しんどかった。
表面上は何もしてないようで、心はとても忙しかった。
ちょっと前までは、疑問が湧いたり、困ったりしたら、どこに行って誰に会えばいいか明確だったし、すぐにスッキリできたけど、今度は一筋縄ではいかない感じ。これをしたらこうなる、というものはなく、ひたすら受け身で待ってる感じ。
本当は、まだもう少し、うだうだしていたいんだけど。。
状況は許すのか?を先に考えてしまうけど、その気持ちを受け入れ、認め、赦し、愛するのは、まずは自分から。
自分の気持ちを、こんなに丁寧に考えたこともないかもなぁ。

ピアスと厄

今年に入ってピアスの片方をなくすこと5回。
高価ではないのだけど、なぜか気に入っていて、どれも買い直せないものばかりなくす。
最近は、「これは厄が落ちたんだ」と思って、さっぱり諦めることにしてる。
実際、厄年だし。
物との別れが切ないのは、そこにいろんなエピソードとその時の思いがくっついているからだ。
自分より小さいものは、自分の一部になってくるし、
自分を包み込むくらい大きなもの(家とか学校とかまち)になると、自分の方がそれの一部になっていて、本体が消滅するような拠り所のなさを感じる。
ピアスみたいな小さい物にさえ、思いを込めてしまう。

癒し

癒しという言葉、軽々しく使われはじめて幾年月...
元々は、「癒える」は、「病気やけがが治る」という意味。
でも、この言葉が使われてるシーンを思い浮かべると、こんな意味のことも多い。
ホッとする
和む
温もりを感じる
楽しい
嬉しい
疲れがとれるような気がする
美しい
可愛らしい
リラックスする
リフレッシュする
ワクワクする
元気になる
励まされる
眠気を催す
心地好い
好感がもてる
静かな気持ちになる
心が落ち着く
好きだ
愛情を感じる
。。。
こうしてみると、「癒やす」にはいろんな思いが込められているように思う。
もっと本当に言いたいことがあるはずだし、その気持ちを表現する力があるはず。
だから、安易に「癒される」で済ませず、今、感じているその気持ちにぴったりくるのはどんな言葉なのか、できるだか丁寧に考えたい。
そういう積み重ねや習慣が、「肝心なとき」に効くんじゃないか、と今は思って、語彙を増やすことを意識的にやってみています。
もう大人だけどね。
でも、大人だからこそ、なんだろうな。
人生が、思いのままにならず、複雑になっていくからこそ、必要なことかもしれない。

2013年7月19日金曜日

花に例えると

先日、とあるワークショップで、
初対面の人が多かったので、
「○○さんを花に例えると?
   その理由は?」
というアイスブレイクをしました。
私がいただいたのは、
・菖蒲(あやめ)
・木蓮
・名前わかんないけど白い花(→写真)
どれも素敵な花なのでうれしい。
あやめとその名前不詳の白い花は、茎がしゅっと立っていて、凛々しい感じ。
木蓮は、花の枯れ際が潔くていい。
大きくて分厚い花びらがボトッと落ちて、茶色く汚れていく様が、なぜか好き。
白い花を選んだ理由は、ネタが多いとか、なんでも拾おうとしてアンテナを張り巡らしているようにも見えるとのこと。
へぇ!
人から見たイメージって面白いな!
このワーク、意外と花の名前を知ってる自分に気づいて楽しい。
祖母や母と、他所の家の庭先や、花屋の店先などの前を通ったときに教えてもらったり、「ああ、ノウゼンカズラの季節ね」なんてつぶやくのを聞いたりして覚えたのだと思う。
図鑑で調べて名前を覚えるのも大好きなこどもでした。(今もそのへんはあんまし変わらない)
花の話をしていると、人それぞれ、いろんなエピソードが出てくる。
小さい頃、庭に植わっていたとか、
付き合っていた人がくれたとか、
その花の匂いを嗅ぐと母の亡くなった季節を思い出すとか。
そうやって、一人ひとりの生きてきた風景が、一瞬垣間見えるのが好き。
それを語る人の表情もとても美しくて、いつまでも見ていたくなる。

2013年7月18日木曜日

「シッダールタ」

2ヶ月前、休みに入った直後ぐらいに読んだ一冊。

ヘッセなのにアジアが舞台?しかもシッダールタ(ブッダ)?と関心をもったのと、翻訳も素晴らしくて一気に読めた。


これは、ブッダの伝記ではない。

出自は似ているけれど、別の人。ブッダの方は、「ゴウタマ」という名で、シッダールタを凌駕する圧倒的な存在として登場する。

シッダールタの方は、恵まれた身分を棄て、友と一緒に故郷を出て、厳しい修行の旅に出る。しかし修行をすればするほど、虚しさや葛藤が高まる。
高僧と呼ばれる人は多い。
しかし彼らの教えだけでは満たされない。自分だけの悟りを得なくてはいけないと考え、友と別れて俗世へ下る。

自分への徹底した信頼。あくまでも自分の目で、身体で感じたことから、自分だけの言葉で悟りを得ようとする葛藤しつづけるシッダールタ。

最も印象的だった箇所は、長い壮絶な遍歴の末に、友と二度目の再会を果たすシーン。


----(引用)

「探り求めるとき」とシッダールタが言った。「こういうことが起こりがちです。その人の目が自分の求めるものだけを見て、その人は何も見いだすことができず、何も心に受け入れることができないということです。その人はいつも求めているもののことしか考えないからです。その人は目標をもっていて、目標にとりついるからです。求めるということは、すなわち目標をもつことです。見出だすということは、自由であること、開いていること、まったく目標をもたないことなのです。御僧よ、あなたは本当に探し求める人なのかもしれません。なぜならあなたは目標を求めて追うあまり、あなたの目の前にある多くのものを見ないからです。」

--------------


友は、長く辛い修行生活を送った結果、誰からも崇められる僧となった。しかし、まだ何も悟ることはできていない、心に平安はない、と苦しんでいる。

手段が目標化してしまったのだろうか。

見いだそうとしない限り、あなたは永遠に探し求める人のままであり、苦しみから逃れることはできない、とシッダールタは言う。

探り求めること自体は自分を前に進める原動力になる。しかし、今、目の前にあるものから見出そうとすることが伴わなければ、何も得ることはできないし、生きることにすら迷う。答えは目の前にあるものと、自分の中にしかない。自分であがき、葛藤しつづける先にしか見いだすことはできない。

修行は、内へ内へと向かう一見ストイックで美しい手段である。しかしそれだけでは、決して到達できない高みがあるということだろう。

現にシッダールタは、果敢に、時に無謀と思えるほどに人と関わっていく。葛藤しながら、傷つきながらも他者を受け入れていく。その過程がリアルで圧倒される。


ヘッセといえば「車輪の下」だが、「シッダールタ」こそ、日本でもっと知られるべき傑作だと思う。


鯖江×耳かき

小学校の時から使っていた耳かきをなくした。
確か友だちや伊賀忍者村のお土産だったと思う。
(そういえばその子の名前、忍ちゃんだった。)
なくした、というより、なくされた。
犯人は、息子と思われる。
耳をそうじするだけなら綿棒でもよいのだけど、どうしても耳かきしたい時もあって、泣く泣く新規購入を検討し、たまたま雑誌で見つけたのがコレ。
鯖江といえば、眼鏡。
その鯖江産の眼鏡のつるを耳かきにしちゃったという。
先代には申し訳ないけど、かなりお気に入り。
10種類ぐらいデザインがあって、迷うのも楽しい。
パッケージもオサレ。
これ、海外でも売れるんちゃうかな。

2013年7月17日水曜日

「絵封筒を送ろう」

絵封筒が地味に流行っているらしい。

ていぱーく(逓信博物館)でも、ワークショッブや展覧会をやっていたし、こんな本も出てる。

こどもの頃は、文通大好きだったなぁ。
eメールが登場してからも、手紙を書くのが好きで、せっせと書いていた。
絵封筒という名前で呼ぶほどじゃないけど、無地の封筒に絵を描いたり、コラージュしたり、面白い手触りやデザインの紙で封筒を作ったりはしていた。
切手も集めてるから、「あの人のイメージはこの切手!」と選ぶのも楽しかった。

そんなことも、最近はとんとご無沙汰。
年賀状も年々面倒臭くなってる。

でもこの本を読んでると、大切な人を思いながら、語りかけるように書いていた手紙を思い出して、書きたくなる。
これだけ凝ると、書かれた内容もパッケージもすべて含めて、もはや贈り物だものね。

でも、誰に書くの??

心に浮かぶ人、何人か浮かんだけど、
なぜか誰もが、いろんな若気の至りで疎遠になってる人ばかり。。
疎遠になってるからこそ、手紙なのか?

というより、今どき住所を知ってる人が少ないんだな、きっと。
eメール、SNSで済んでしまうから。

中学生とか高校生と文通したら、楽しそうとふと思ったり。
逆に70~80歳ぐらいのご隠居さんみたいな人ともいいかも。

今どきだからこその価値が、手紙にはありそうだなぁ。

そうそう、この本を書いた二人って絵封筒をきっかけに結婚したんだって。。素敵!

2013年7月14日日曜日

Just listen to me, instead of saying "Take it easy" or "You're too serious"...

ここ数日、ごく少数の信頼できる人たちとの、
あたたかで誠実な、言語による対話/非言語による心の交流を通じて、
大きな気づきが、いくつもありました。

そのうちのひとつ。


私は、これまで落ち込んでいる人を励まそうとするとき、
「がんばりすぎ!」
「あなたって真面目なのよ!」
「もっと気楽に!」
と声をかけることがありました。

それに加え、
「その真面目さが、自分で自分を辛くしているんだよ」
「ほどほどにすることも学ばないと」
「あなたはこういう傾向にあるから、
 こういう風に振る舞うと、今よりもっとよいあなたになれるはず」
「私にも経験があるけど、そういう考えはいずれこういう状況を引き起こす」
などの言葉も添えていたこともありました。

しかし、それはほんとうに相手のためになっていたのだろうか。
今、逆の立場になってみて、疑問がわくのです。

「もっと気楽に!」という「励まし」は、
逆に、今のその人を否定していることになるのではないか。


「その真面目さが、自分で自分を辛くしているのよ」
「ほどほどにすることも学ばないと」
という分析やアドバイス。
相手に対する愛情や思いやりや貢献だと信じ、
良かれと思って、何も考えず発していたように思います。

しかし、自己と向き合い、内面に迷いや葛藤を抱え、
「心の旅」の最中にある人にとって、
それらの言葉は、残念ながら何の意味も持たないか、
しばしば心を深く傷つける暴力的な言葉、呪いの言葉にもなり得ます。

相手は、ほんとうにそんな言葉がほしいだろうか?
自分を否定するような言葉を、あなたから受け取りたいだろうか?
自分が、大切にしている/してきたことを、
「あなたのために」と言いながら、否定されたいだろうか?


たぶんこれらの言葉は、聴き手が安心したいがために
発している言葉なのだと思います。
目の前にいる、迷いや葛藤に揺れている人、
ネガティブな感情に打ちのめされている人、
しんどそうにしている人に対して湧く不安な気持ちが、
自然とそう発言させるのかもしれません。
そのために、相手に「気楽にね!(私は、あなたに気楽な人でいてほしい)!」
という自分の願望を伝えてしまうのではないかと思うのです。

もちろん期待をしてもらうことは嬉しいし、
強い言葉に引き上げてもらいたいときもありますが、
ほんとうにしんどいときは、願望は受け止めるのがしんどい。


自分が、大切にしている/してきたことがなんなのか、
そこを丁寧に聴いてもらいたい。
「あなたが、〜ということを大切にしていると感じた」
と聴き取ったことを、感じたままに、言葉にして贈る......
ただそれだけのことが、ものすごくパワフルなギフトになる。
ほんとうに相手の役に立つことができる。

解決策は、結局はその人の中からしか出て来ない。
それが出てきやすいように、ただ「共に居る」「聴く」(時に「触れる」)。
人が人に対して役に立てることなんて、
もしかしたらそのぐらいなのかもしれません。

解決への道のりを摸索する姿を見守っているのは、時に歯がゆいかもしれない。
自分の持っている解を、相手にも持ってもらいたくなるかもしれない。
でも、私はあなたではないし、あなたは私ではない。


相手に対して伝えたい思いがあるのなら、
願望ではなく、「祈り」を込めて、目の前の「その人」に対して、
自分がほんとうにしてあげたいと思うことを、
誠実に伝えればよいと思うのです。

例えば、
「あなたが抱えている難しさを、
 完全には理解することはできないかもしれないけれど、
 少しでも近づきたいから話してほしい」
「一人になりたい時があったら、いつでもここに来て考え事をしていてもいい」
「一緒にごはんを食べることで、ホッとできるなら、ぜひそうしよう」
「やりたいことがわからないなら、わかるまで付き合うよ。一緒に考えよう」
とか。
(実際に言われて嬉しかったことですが)


わからなければ聴いてみてもいいですよね。
「あなたが自分らしくあると感じるのはどんなとき?
 今は自分らしくあると感じるために、私にできることは何だろうね?」


ほんとうに自分が相手に対して共感をもって聴いたという実感がある上でなら、
「あなたはこういう傾向にあるから、
 こういう風に振る舞うと、今よりもっとよいあなたになれるはず」
という言葉も、その人と自分の関係性において伝えるべきかどうか、
わかるはずなのです。

私はこれまで、「聴く」ということが苦手で、
ついつい自分の考えをはさみたくなってしまっていたのですが、
これは相手の話に自分を重ねてしまっていたのだと思います。
共感はするけれど、同調してはいけない、ということなのでしょう。


まとまらないのですが、「気楽に!」という代わりに
心を傾けて、最大の誠実さをもって
私の話を聴いてくれた人たちに、心から感謝をしています。


2013年7月12日金曜日

最近読んだマンガ

自分用の日々の記録として、
駄文をただ書き連ねている当ブログですが、
読んでくださる方もいるようで、ありがとうございます。


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以下は、最近読んだマンガの記録です。
本も好きですが、マンガも大好きです。
マンガで感動したときは、
これは紙上の総合芸術ではないかと思っちゃうこともあります。


・「うさぎドロップ」
 家族とか、友情とか、枠や型は全然大事じゃない。
 一人ひとりの人間として大人もこどもも、お互いに真摯に向き合っている。
 親として、女として共感する部分も多くて、胸がぎゅっとなった。
 男の人にも読んでほしいなぁ。

・「昭和元禄 落語心中」
 一言で語り尽くせない!
 胸が痛くなるほどみんな真っ直ぐで、泣ける。
 落語も最近になって見(聞き)始めて好きになったもののひとつ。
 
・「坂道のアポロン」
 放課後の地下室でジャズという言葉を通して語り合う、パッションを共有する、
 切ない青春だなぁ。。
 サントラをBGMに読むとなお良し。

・「宇宙兄弟」
 主人公がどんどんすごくなっちゃっていってるけれど、
 やっぱりまだまだ面白いです。
 
・「ちはやふる」
 我がかるたサークルでは、必読書。
 キャラの中では猪熊さんに共感している。
 滋賀の生まれ育ちなので、近江神宮も身近な存在。
 
・「海街diary」
 吉田秋生の「BANANA FISH」は青春のマンガ。
 この海街シリーズもよかった。
 家族ってなんだろうね、という中でも姉妹について考える。
 (自分も姉妹なので)

・「ALEXANDRITE」
 成田美名子の「CIPHER」が青春。(当時小学生であった。。)
 これを読んでNYに憧れた中高生は多かったはず。

2013年7月11日木曜日

「歌行燈」読書会

先日書いた「歌行燈」の読書会、行ってきました。
http://uyography.blogspot.jp/2013/06/blog-post_1648.html

時間になって集まってきたのは、ほぼ70歳代と思われる方々10人。
そりゃそうだよね、平日の昼間だもん。

そんな中にアラフォーの私が一人。
おお、完全に若輩者!な雰囲気を感じながらも、読書会スタート。

こちらの図書館では、300回を超える由緒ある読書会らしい。
選書も進行も区民がやっているのだけど、
古今東西、名作から最近のベストセラー、児童書まで、
ともかくフィクションなら食わず嫌いなしに幅広く取り上げている。
ベストセラーが借りやすいように年間計画の中で時期をずらしたり、
複本が多い本にしてみたり、と工夫が凝らされている。

歌行燈に関しては、しょっぱなから、
「あらすじが全然わかんなかった!結局どんな話なの?」
などの感想が多く聞かれ、
「私が期待していたような、ガッツリした話はできないのかな...」
と一瞬残念でしたが、一人ひとりの感想を聞いているうちに、
すごく味のある読書会だと思いました。


例えば、
全然人の話を聞かずに、自分の知識や持論をしゃべりまくっているおっちゃん。
でも、ほんとうに知識や経験が豊富で、「それは知らなかった!」ということもたくさんあって、勉強になりました。

「泉鏡花と同じ時代の人にとって能というのは、どういう位置づけにあったのだろうか?
やはり今と同じように一部の人の高尚な趣味?
それとも庶民にも身近なもの?」
という興味深い問いかけもありました。

「小さい頃は、いろんな芸事がもっと身近だったし、
たしなみとしてあったよなぁ」という声も聞かれました。

「難しかったけど、自分からは手にとることはないので、チャレンジできてよかった」

「あらすじは全然わからないんだけど、音読をしてみたら、リズムの良さに感動した」

「30年前は、文語体の旧約聖書をサラサラと読めてしまったのに、今、文語体を読むのに一苦労している自分に驚いた」

「能を見てみたいと思った」

私がもってきた、コミック版の「歌行燈」を見て、
「よく見つけたわね!」とびっくりされた方もおられれば、
「あたしマンガは大嫌いなのよ!」とはっきりと仰る方も。

でも最後には、「また来てね。若い人は大歓迎なの」と言っていただきました。
あんまり歓迎されていない雰囲気?と勝手に思っていたけど、
それを聞いてとてもうれしかったし、私もまた来たいなぁと思ってしまった。

彼ら、彼女らにとって、この読書会は、
月に一度お互いの元気な様子を確認し、本を読むことを通じて、
つながりを持つ会だという、その大切さはよくわかりました。
その前の1カ月にいろんなことがあったかもしれない。
でも、自分の近況をあれこれ語るわけじゃない。
ただ、今は元気でそこにいることをお互いに祝福するような、そんなひととき。

最初は、読書会なんて優雅でいいよなぁ、なんて思っていたけど、
それぞれの人が、その人なりに激動の人生を70年も歩んで来て...の今で、
元気で、生きて、ここに一緒にいて、
同じ物語から何かを感じ、発言しなかった深い部分も共有できたことに、
ものすごく感謝したい気がしました。

それと同時に、もっともっと深堀りしていく読書会もしたいと一方で思ったりもして。

本を通じた出会い、気になるテーマのひとつです。







「歌行燈」


来週、読書会に参加することになり、読んでみました。

泉鏡花は、中学生で「高野聖」に手をつけて挫折し、
それ以来、気になっていたものの、
なかなかきっかけがありませんでした。
そもそも中学生っていうのが、早すぎたんですが。。

しかし今、「歌行燈」を読んでみると、、、
どうでしょう、この怪しい美しさ!!
すっかりやられました。

「あっち」の世界にすうっと連れて行かれるような、
壁抜けするような、
此岸から彼岸へ渡るような、あの感覚。
文楽や能や落語でも、はじまりは、まずあちらへ渡るところから。
「あ、今、自分が連れていかれた」
という瞬間の心地好さを思い出しました。

頭の中では、三味線や鼓の音、
謡や義太夫節などが鳴り響いています。
文楽や能を観ておいてよかった。
自分なりにその良さを見つけ、
世界には浸った経験があってよかったです。

とはいえ、文語文だし、泉鏡花独特の表現など難しい部分もあって、
私の解釈が合っているのかしら、と不安ではある。

そこで見つけたのが(これも図書館の蔵書!)、
コミック版「歌行燈」。

た、助かる〜


でも、初めて読む方もまずは原作からおすすめします。
ある程度、自分の中で世界をつくっておいてから、ビジュアルに臨む方がよいかと。

さて、本番の読書会はどんな人が来て、
どんな話が展開していくのでしょうか。
楽しみです。

「バッテリー」

ずいぶん前に話題になったけれど、その頃にはなぜか手をつけられなかった。
でも、読むのは今のタイミングでよかったなぁと思う本です。

友情物語が書かれた児童書だと思って手にとったら、全然違った!
こどもの頃の、特に小学校高学年から、中高生にかけての、
「私」がぐわっと引っぱり出されるような本でした。

どの登場人物にも、作者からの深い深い「共感(Empathy)」があって、
熱いけど温かくて。
あの頃だったら、私はどんな風に読んだんだろうか。

「共感」をテーマを据えて読んでみると、
それぞれの人が言葉の裏に本当にほしかった願いが見えてきて、
それはひとつひとつ、小さな美しい光なんだなぁ。。
と、そんなことを考えたりします。


(あとがきから引用)-----
「女の(しかもかなりの年齢の)わたしが、若い異性に感じた十代ゆえの眩さを信じたかった。ただ十代であるというその一点の他に、何の条件も無く、少年であるがゆえに発光するものを信じたかった。それを捉えた自分の完成を否定したくなかったのだ。捉えたものを表現したかった。その表現が、『十四歳の闇』を盛んに論じ、定型へと囲い込もうとするものへの、異議申し立てになりはしまいかと、臆病な自負をぶらさげていた。」

「そう、わたしは、生の身体と精神を有するたった一人の少年を生み出したかったのだ。自分自身という個に徹底的に拘る身体と精神。自分の感じたことを自らの言葉で真っ直ぐに表現することも、自分の表現や言葉を自らが引き受けて生きることも、この国では歓迎されない。むしろ忌み嫌われる。それが『子ども』と呼ばれる領域にいて、強調のみを尊び、個より集団をはるかに重視する学校体育という制度内に生きねばならない者ならなおさらだ。」

「彼は他者の押し付ける物語を拒否する。友情の物語、成長の物語、闘争の物語、あらゆる予定調和の物語を拒んで、マウンドという場所に立つ。
 他人の物語の中で人は生きられない。生きようとすれば自らを抑え込むしかないのだ。定型に合わせて、自らを切り落とさなくてはならない。自らの口を閉じ、自らの耳を塞ぐ。自らの言葉を失い、自らの思考を停滞させる。」

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まだ文庫本で2巻目ですが、一気に読んでしまおう。
さて、これから続きを借りに行こう。

2013年7月10日水曜日

展覧会「ワカラナイ」ノススメ

会期は終了していますが、コンセプトが面白かったので投稿。

茨城県立近代美術館

美術館ブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/momaibk/diary/?ctgy=21


 

(チラシより)-------------------------------------
「ワカラナイ」ノススメ
抽象的な作品を「何を表しているかわからない」と言って敬遠する人は少なくありません。 しかし「わからない」と感じた時にこそ、作品とそれを前にした人との間に様々なかかわり方が生まれるはずです。 この展覧会は、「わからない」からこそ始まる美術作品とのかかわり方を探っていく展覧会です。

ワカラナイ ダカラ ミンナデウケトメル
今回の展覧会、美術館はいつもとはちょっと、いいえ大分ちがいます。作品を見て「何を表しているのかわからない」と感じた時に、そのまま通り過ぎてしまわずに、立ちどまってみようという展覧会です。
「ワカラナイ」、大いに結構。「ワカラナイ」とは、未知なる何かを感じていることではないでしょうか。「ワカラナイ」というモヤモヤを糸口に、作品とのかかわり方をさぐってみませんか。一緒に来た人や、たまたま隣にいる人と「ワカラナイ」気持ちを伝えあってみませんか。みんなでその気持ちを受けとめあい、作品に、そして自分自身に問いかけつづけてみてください。
作品を「わかる」というのは、一体どういうことなのでしょう。すぐれた作品ほど、たえず、わかりたいという思いを更新するのではないでしょうか。作家のことばや学芸員の説明のことばで「わかる」ことでもありません。学芸員や美術館の人も見る人のひとりとして「ワカラナイ」の輪に加わり、ともに「ワカラナイ」のモヤモヤから、答えのようでもあり、更なる問いかけでもあるような「ことば」を紡ぎだしてみましょう。

作品の前で、自分は何を求めているのか、なぜ、美術館に来たのか、そんなことまで考えていただけたらと思います。
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私は、このチラシを見ていて、
なんだか猛烈に、この企画をした学芸員の方、この文章を書いた方にお会いして、インタビューしたい!という思いに駆られました。

一般的に「理解が難しい、敷居が高い、自分には関係なさそう、やってみたいけど機会がない」と思われていることについて、一緒に味わって考え実践し語る場をつくる、ということにすごく関心があるのです。

特に文化や芸術について、こういうスタンスで展覧会を開いている方がいらっしゃることは、すごいことだと思う。

なぜなら、学芸員によるギャラリー・トーク、ガイドツアー、ワークショップ(という名の講義)は多いけど、やはりとても一方的で、美術館がもっている知識を披露するということになってしまう。
まして参加者同士の相互作用を起こすことは考えられていない。

そこにきて、この展覧会のすごいところは、
美術館が権威的な立場に陥り、上から目線にならず、学芸員が問いかける人であり、作品と観客の触媒となっている点だと思います。

観に行っていないのにそこまで断言するのもアレですが、ブログを読んで行くと、これがとても画期的な展覧会だったことがわかります。

「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの」に出てきた美術館もそんな感じだった。

ほんとに機会があれば、インタビューしてみたいなぁ。。
私は別にライターやインタビューが稼業でもないし、今は何者でもないのだけど、
どんな背景をもったどんな人が、どんな思いをもって企画、運営されているのか、とても興味があります。

ツイン・タイム・トラベル イザベラ・バードの旅の世界 写真展


 

先月のことですが、
東大駒場キャンパスで開催していた、
「イザベラ・バードの旅の世界」写真展に行ってきました。

イザベラ・バードは、イギリスの旅行家で、南米と南極以外の全大陸を制覇。
22歳から70歳までほとんど旅をしていたようです。
日本には明治初期に来て、ワイルドな辺境を旅した体験を
「日本奥地紀行」を書いています。

私は、何年か前に、宮本常一の「イザベラ・バードの日本奥地紀行を読む」を読んで彼女ことを知ったのですが、感想として
「よう来はったなぁ...」しかなかったです。
道なき道、南京タムシだらけの寝床......ああ、読んでるだけで痒かった。

この本と、宮本常一の「忘れられた日本人」は、
「そんな日本があった」シリーズ(勝手に命名)として
セットでオススメしたい本です。


今回のツイン・タイム・トラベルという企画は、
「『過去の旅行記に描かれた旅の時空と自らの旅の時空を主体的に重ね合わせる』新しい旅の形です。」(チラシより)

つまり、旅行記に描かれた場所へ実際に行ってみて、
写真を撮り、当時の面影を探りながら、
時間の流れを手繰りよせ、その長さ深さ広さを感じてみる、ということのようです。
この写真を撮った、京大名誉教授の地理学者・金坂清則さんの造語らしいですが、
そういう旅を表す言葉って、既にありそうですが、実はなかったんですね。

「日本奥地紀行」の場所を訪ねて、日本で写真を撮っている人はいるようですが、
世界まで出て、20年以上かけてライフワーク的にやっている人は、多分少ないと思われます。
金坂さんは、かなり熱い方で、会場で流れていたビデオ解説の中でも、
これまでの日本奥地紀行の訳には、誤りが多い
(○◯寺と書かれているが、バードの勘違いでほんとうはXX寺など)として、
「調査なき翻訳などあってはならないのです」
と濃ゆい関西弁でたいそうお怒りだったのが印象的でした。

イザベラ・バードは、なんとなく背が高くて、頑丈そうな女性のイメージだったのですが、私と大して変わらない、身長150センチぐらいと聞いて驚きました。

彼女を旅に突き動かしていたものは、なんだったんだろう?
その時代の女性の生きづらさと何か関係があったのだろうか?

いろんな疑問がわいてきます。








バス停の椅子問題

別に問題として取り上げるほどのことはないんですが、、
前から気になっていたものとして、
バス停の椅子があります。
いつの間にか置かれてるこの椅子たち、
誰が?なんのために?
要らなくなった椅子の有効活用にしては
あまりにもひどいものもあります。
だって、これ座れへんやん!!
でも置かれてしまったものはどうしようもない、という感じで、きょうもそこで埃にまみれ、雨に打たれている椅子たち。
また収集したら、アップしようと思います。

2013年7月9日火曜日

「あらすじで読む名作能50」


今、一番見たい舞台モノ。

それはもう断然、能。


能を初めて観たのは去年のこと。
国立能楽堂の「働く人に贈るシリーズ」で「鵜飼」、
そして先日、同じく国立能楽堂の「能楽鑑賞教室」で「黒塚」を観ました。

観るまでは、
「和楽」とか読んでる中高年のご婦人が、着物で観に行くようなハイソな趣味?!
淡々としていて、何を言っているかわからないから、寝てしまいそう?!
と思っていました。

初めて触れてみて、
これほど普遍的なテーマを扱っていて、
究極の美をミニマムな型(かた)で表現している
ドラマチックな演劇がこの世にあること。
600年以上も受け継がれていることに
日本人として誇りを感じるような、
そんな衝撃を受けました。

能には、幽霊、神、精霊などが出て来ます。
そして、例えば、
生前起こった出来事と、そこで死を遂げた自分の無念を語り、
たまたま通りがかった旅の僧に訴え、祈祷を受けて成仏します。
そういう超自然的で、人智を超えた奇跡的な物語が描かれているのだけど、
それはただの空想でも夢ではないと感じます。
ずっと昔は(もしかすると私の祖父母ぐらいまでは)、当たり前のように
人々のごく身近に存在していたのではないかと感じるのです。

人が意識的にまたは無意識的に心の中にもっていて、
普段は、名づけられることもなく渦巻いている、
怒り、哀しみ、恐れ、憎しみ、嫉妬、喜び、祈り、、、
そういう様々な感情が、最小限の言葉の中に語られる。
だから、舞台の最中にそれほどたくさん説明されなくても、
どれも全部自分が「知っている」こととして、丸ごと感じることができるのです。

能は、誰が見ても楽しいものどうかはわからないけれど、
少なくとも、
「物語」に入り込んで感動したことがあるとか、
人の心のままならなさに、悩んだり、
自分自身の行く方に葛藤したことがあるなら、
何か響くものはあるのではないかと思います。



んで、前置きがすごーーーく長くなってしまいましたが、
本題の本の話。(本題が短い)

まずは能の決まり事や作品のあらすじや背景などの予備知識をインプットして、
わかりやすい話や、名作と呼ばれるものから観て行くとよさそうです。
能楽鑑賞教室など、解説付きのものは、料金も手頃だし、時間も短いです。

そのときに、この「あらすじでよむ名作能50」はとても役立ちます。
図書館で借りたのですが、初心者向け能の解説本としては、
今まで読んだ中で、一番わかりやすかったです。(個人的に)

あとは寝てしまわないために、体調を整えて行くことは大切だと思います。
どんなに観たくて行っても、寝不足、満腹、空腹などでは集中できません。

能舞台は、いわば彼岸だから、そこを見ようとするには、
集中力が必要なんではないかと思うのです。

逆に、悩みがあって鬱々としているときなどは、
能を観ることによって、昇華されるものがあるかもしれません。
物語には、そのような効能があることをあらためて、感じさせられる舞台です。
機会を見つけて、もっともっといろんな名作を観てみたいです。

能の魅力については、まだまだ書きたいけど、
如何せん、文章力が追いつかない。。。







ソフィ・カル展「最後のとき/最初のとき」

気づけば6/30までで、あわてて行ってきました。
「最初のとき」は、初めて海を見た人たちの表情をとらえたビデオインスタレーション。
「最後のとき」は、先天性失明と中途失明の人たちに、最後に見たものについてのインタビューを基にした写真と言葉。
この日は、ドキュメンタリー映画の上映もありました。
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彼女の表現やアイディアは、一見エキセントリックなようだけど、とても魅力的です。好奇心と冷静さがある。
アート表現のためなら許されるのか?という批判もずいぶんされたんだろうと思います。
プライバシーは?道義的には?とか。
でも同時に、アートだから超えられるものがあるだろうとも思います。
それは人間の根元的な欲求や願いを満たすものだけど、あえて口にはしないか、もっていることにも気づいていない。
それを見えるような形にして、
「ほら、私はこんな風に世界を切り取ってみたの」
「どうして人は・この世界は~なんだと思う?」
と問いかける。それが表現者ではないかと。
だから既存のものと、闘う運命にあるのかも。

そのぐらい世界にコミットする。。それはエキセントリックにもなるよなぁ、、、
ドキュメンタリーの中で、ソフィが「自分の人生を作品にすることは、その過程でもちろん癒されることもあるけど、それが目的じゃない。すべてはアート表現のため」と言っていたのが、印象的でした。

撮られた対象、一人ひとりの人生について、思いをはせながら、その後ろにある私自身の物語も、断片的なイメージとして降ってきました。
おそらくこの先会うこともないだろう多くの人々。しかし、不思議なことに誰もが「私自身」でした。
海には、たぶんたくさんのイメージを取り込み、膨張させ、揺らし、ときに曝す力があるのではないか。。そんなことも考えたり。

この展示で、私はソフィからのたくさんの問いかけを受け取りました。

-なぜ私とあなた、あなたと彼ら・彼女らの間には、つながりを感じるのか?
-一緒に居るってどういうこと?
-あなたが見ているものは何?見る、見えるってどういうこと?
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こういう感想、わかち合う場や仕組みが、その場にあればいいのにね。
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息子の願い事

息子の七夕のお願いがすごい。
「おうちがブックカフェみたいになりますように」


先日、私の友人と
東高円寺のブックカフェ「イココチ」さんに行ったのが、
えらく楽しくて思い出に残っているらしい。

絵本もこどもの本もたくさん!
選書もなかなか渋くて私好みでした。
お茶やお菓子をいただきながら、本を読んだり、しゃべったり、


おもちゃで遊んだり、ちょっとしたゲームをしたり。
(それが机の引き出しから出て来るのが、ウキウキするらしい)

そこに友だちが来てくれて、一緒に遊んだり、
一人でも遊んだり、
思い思いに寛げる、楽しめる。

おうちもそういう場所だったらなぁ......ということが言いたかったようです。

うん、いいね、それ。
ほんとうに。
素敵だなぁ。
したいなぁ。

2013年7月8日月曜日

世界で一番美しい中央駅

世界中の中央駅を見たわけじゃないけど、東京駅の丸の内側は、世界で一番美しい中央駅と言っていいんじゃないかなぁ。
大都市の中央駅って、だいたいが猥雑で物騒な印象。
八重洲側は、ややそんな雰囲気もあるけど、とはいえ日本なので、背筋が寒くなるようなヤバさはない(と思う、たぶん)。
その辺は、新宿駅とか渋谷駅が担ってるのかな。東京の場合。
京都駅もこんな風だとよかったんだけどねー。いまだに残念でならない。
(いつの話だ)

七夕

もう過ぎちゃったけど七夕。
とある駅で見た笹飾りは、
虹がたくさん。
そのアイディアが素敵!

金魚すくい

きのう近所のお祭りで、金魚すくいして、うちに金魚がやってきた。
水槽がほしいなぁ~、金魚とかメダカとか、小さいの飼いたいなぁ。。
と冬からなんとなく言っていて。
ペット売り場にも見に行ったけど、なんでかそこで「よし、買おう!」という強い衝動が起こらず、そのままになっていました。
お祭りに一緒に行った子達がたくさんすくってくれて、4人で計11匹の釣果。
これはもう水槽を買わねばなるまい!となって、あわてて導入が決まりました。
不思議ね。
願ってると、
願ってるタイミングじゃないときに、
ふと叶うんだなぁ。
でも11匹のうち、すでに1匹はその日のうちに弱って死に、1匹は夜中に入水ならぬ出水自殺したらしく、朝見たら床の上で動かなくなっていました。
お祭りの金魚だから、もともと弱ってるはず。
このうち2匹ぐらい生き残ってくれたらな、というぐらいの感じで、見守ろうと思います。

カンナ


道端によく咲いてるカンナ。
赤やオレンジや黄色の、
ビビッドな色を見ていると、
夏が来たな!と思う。
これは、カンナのつぼみって
こんなにかっこよかったかしら?
と思って撮った一枚。

2013年7月7日日曜日

「大人の友情」



かるたサークルを主宰しています。
きょうは3ヶ月に一度の活動日で、
「ああ、大人の友だちっていいな」とあらためて思いました。
それぞれに仕事や家事や育児(いずれ介護も)があったり、
それぞれに問題を抱えたり、悩んだりしているわけだけど、
かるたで真剣勝負することで、頭や体の違うところを使うことで、
スッキリして、終わった後はごはん食べながらいっぱい話して、
またそれぞれの日常に帰っていく。

そんなことを、ほそぼそと1年半ほど続けています。


そんな私ですが、
「大人にとっての友人、友情ってなんだろうなぁ」
とここ数年考え続けています。
図書館でぶらぶらしていたら、
河合隼雄さんのドンピシャな本があったので読んでみました。

(引用)-----
「私はかつて、ユング派の分析家、アドルフ・グッゲンビュールの『友情』についての講義を聞いたときのことを思い出す。そのとき、彼は若いときに自分の祖父に『友情』について尋ねてみたら、祖父は、友人とは、『夜中の十二時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ』と答えた、というエピソードを披露してくれた。」
(引用)------

ここで、「かくまってくれる」のではなく、「黙って」「話に乗ってくれる」のが、
深い信頼関係で結ばれていることを表している、と。
なるほど。。
相当な友情だけれど、ここまでの思いを人に対して抱いているか、というと
もうそれは1人とか2人とかの顔しか浮かばない。
「究極の友人」と言えるかもしれない。

この他にも、
 −友だちが欲しい
 −友情を支えるもの
 −男女間に友情は成立するか
 −友人の出世を喜べるか
 −友人の死
 −「つきあい」は難しい
 −碁がたき・ポンユー
 −裏切り
 −友情と同性愛
 −茶呑み友だち
 −友情と贈りもの
 −境界を超える友情
といった目次の、ひとつひとつがそれだけで対話の場が何回でも開けるような、テーマになっている。

碁がたき・ポンユーでは、ゲームや勝負の中で友情が育まれるプロセスなどが書かれていて、かるたサークルでやっていることの意味づけがされて、あらためてやってきてよかったと思った。


河合さんの書きぶりは分かりやすく、優しさと誠実さと共感に満ちていて、
どの本を読んでいても、とても心地がよい。

(引用)------
「文章は読みやすいと思うし、手軽に読めるので電車のなかなどで読んでいただくといいが、軽いなかに急に重いことや苦いことが突出してくるのを感じられることだろう。これは『友情』というものがもつ性質のためであって仕方のないことである。そんなところでは、ときどき読むのをやめて一思案して下さると有難い。」
(引用)------

こんなふうに。


2013年7月6日土曜日

寄せてもらう

「寄せてもらう」
って、きのう久しぶりにつかった。
関西の言葉で、
「訪問させてもらう」という意味の丁寧語。
気軽に立ち寄らせてね!
という感じが好き。
もしかして今はあんまり使わないかも?

2013年7月5日金曜日

英語で伝える②



もう一冊、楽しく役立った本。

NHKの「英語でしゃべらナイト」は、2003-2007年の番組なので、
すでにもうだいぶ前の感もありますね。
たまに観ていて、松本アナの気さくな感じや、一所懸命に成長していく様子が、
いいな〜と思っていました。

「常にWhy?を意識する」
齋藤孝さんも書いてましたが、日本人同士の会話では、「へえそうなんだ」「そうだねー」で終わるところが、外国人同士だと十中八九「Why?」が返ってくる。
「意味のあること」「メッセージ」を会話に込めることが、個性の表れである文化で育ってきた人たちなんだろうな。

「あなた自身の、様々な事柄に対する姿勢そのものが問われてしまう」
とは耳が痛いですが、確かにそうだと思う。
そこまで求められない学校教育、家庭教育、文化の中で生きてきたけれど、
その先は、やっぱり「Why?」がないとダメだろうと思う。

Why?に気づくと辛くなることも多いけども、
Why?と問いかけ「ない」ことに、慣れてはいけないとも思う。

今やっているオンライン英会話でも、よく講師から、
「あなたは〜が好き?それはなぜ?」という質問がある。
「え、と。なんでって言われても...」と一瞬思う質問ばかりだけど、
こういうことを丁寧に伝える練習をしていくことは、
自分の言いたいことだけをただ言うよりも、自分を伝えることになるし、
すごく大切だとも感じる。

あとは、
「腰は低く...してちゃダメ!」もそう。
遠慮や恐縮や謙虚や恥ずかしさを感じることに、
あんまり意味がないというのは、ここ1カ月での学び。
自分にも相手にも、全然意味がない。
だからその分、フォローしたり、なんとかしゃべる。
。。。すると「なにか」は相手に伝わる。

セッションでは、「お金払ってサービス受けてるんですから!」
という多少がめつい気持ちで臨んでいるので、いい練習になりそう。
「だってわかんないんだもん」という開き直り。
「だってこれが言いたいんだもん」という一所懸命さ。

質問を工夫することで、発想を変える練習にもなる。
けっこうここで物事にとらわれている自分を発見して、楽になったりもする。

英語を話しているときは、ぺらぺらじゃないだけに、
シンプルな単語や表現を使った率直なコミュニケーションになるので、
満たされるものがあるし、楽しく会話している時に、
ちょっとアドレナリンが出る感じは、やっぱり気持ちがよいのです。